呪文詠唱破棄
マーリーのお婆ちゃんが亡くなって以来、マーリーが授業中に寝てしまうことはなくなった。
3年生になると、自習室の塔が変わった。担任はクライヴのままだ。チェルソの身長がひょろりと伸びて、声が低くなった。アンブラも細い体がなんだか女性らしくなった。
私は子どもっぽいまんまだ。でも悲しみや楽しさも、普通に違和感なく感じられるようになってきた。
それはいいんだけど、寂しさとか嫉妬とか、あんまり歓迎したくない感情も感じる。
「……また3人」
マーリーもアンブラもチェルソも、憧れの先輩とか恋人になりそうな人とか、そういう人とランチをとるようになっていった。毎日じゃないけど、ちょっとさびしい。
「ココはいないの? 気になる人」
「いないよ……。まだその感情、わかんない」
「……感情って、随分事務的だな」
あ、しまった。ヴォルターもいたんだった。
そして私は、随分素直にしまったと顔に出してしまったらしい。ヴォルターはパスタを口に運びながら肩を竦めた。
「気にしないで。忘れるから」
「あ……違うのよ……。元の悪い名前の話、したことあるでしょ?」
「悪い名前をブレナン先生が奪ってるっていうやつだっけ」
「そう。その悪い名前がね、魔力の代わりに感情を奪うのよ。だから、パパに名前を奪われるまで感情がなかったの。だから……あ、ほら、私日本人にしては空気読めないでしょ?」
「……あぁ……うん……」
やっぱりそう思われてたのね。
「怖いもの知らずなわけだ」
「そうなの。怖いっていう感情がなかったから。不安は、よく感じるけど恐怖はあんまり……」
父にもなかったってことは言わなくてもいいかな。
母はどうなんだろう? いるのかいないのかもよくわからなかったから……。今思えば、避けられていたんだろう。そりゃあ、感情のない娘なんて気味が悪いかも。母が魔法を使えるのかどうかさえ、私は知らない。
「ほんと、随分感情豊かになって嬉しいわ」
「でも、好きっていうのは……ほら、私エミィもヴォルターも大好きよ。恋愛とはどう違うのか、わかんないのよ。相手あってのものだし」
「焦る必要はないんじゃないか? オレも200年生きてるけど恋人とかいたことないし」
「アタシも400年生きてるけど、恋愛ってしたことないわ。いっつもドロテアかサクラと遊んでたし」
「つまり、私達3人って恋愛下手が余っただけなのね……。あ、マティアスは? マティアス連れて来よう」
アルファクラスに遊びに行くと、マティアスは廊下側で本を読んでいた。窓側だと太陽光が当たるものね。
「マティアス、御機嫌よう」
「……こんにちは、ココ」
「あのね、ランチ、一緒にどうかしら」
「いいよ」
エミィとヴォルターは、私がマティアスを連れてきたのを見てびっくりしていた。
「君が他人とつるむなんて」
「そうよ。アタシが話しかけても無視するのに」
「君達はいい歳だろ。彼女は小さな子供だ」
「……もう13歳よ……」
なんだかがっくりきた。
そりゃ、吸血鬼の13歳は小さな子供かもしれないけど……。
「これから一緒にどうかしら。3人にまで減ると、やっぱりさびしいものがあるわ」
「4人ならいいのか」
「過半数だもの」
「3人になった時は呼んでくれ。人間の子達と仲良くする気はあんまりない」
「私も人間よ」
「君は断っても納得しないだろう。……まったく……」
ヴォルターが苦笑する。
「マティアスがここまで追い詰められてると面白い」
「……あら? マティアス、口の端に血がついてるわ」
「なんだって? ……あぁもう、今日はツイてない」
マティアスが口の端をゴシゴシ拭いながら口を尖らせる。
「どうしたの?」
「詠唱破棄登録の実践があったんだ。指を鳴らそうと思ったのに、ちょうど登録する時にぶつかってきた奴がいて舌を噛んじゃったんだ」
「えっ!? 大丈夫!?」
「こんなのすぐ治るからいいんだけどさ、これから魔法使うたびに口の中が血まみれだよ」
「詠唱破棄登録って、変えるの難しいらしいからねぇ」
「エミィは? どんなのにしたの?」
「かかとを鳴らすの」
私は何にしようかなあ。
指を鳴らす人が一番多いけど、ちょっと違うのがいいなあ。
それから私は、丸2日悩んでいた。
「みなさん、詠唱破棄については前回までに勉強した通りです。うまく魔力をのせられるアクションを決めて、呪文の代わりにします。今日はいよいよアクションを登録します」
「昔登録の時におならしちゃった人がいるんだって」
「えー? それって、どうするの?」
「おなら出す達人にならなきゃいけないんじゃない? 他にはね……」
マーリーがこそこそ変な話をしてくるので笑うのを我慢するのに苦労した。
私は、もうどんなアクションにするか決めていた。元の名前、感情のハートマークを指でかく。
「それでは、準備ができた人から始めてください」
詠唱破棄登録は、呪文を唱えてそのアクションを行うだけ。ただ、何度も行うことはできない。
小さく呪文を唱えて、空中にハートマークを描く。
周りを見てみると、チェルソは無難に指を鳴らしていた。マーリーは手を叩いていた。アンブラは髪の毛をくるっと指で回していた。
けっこういろいろあるなあとヴォルターを見ると、彼は悩んでから舌を噛んだ。
「ちょっとヴォルター……痛そうね」
「いろいろあって」
マーリーが顔をしかめても、彼は笑ったままだ。
マティアスが、それだから?変に浮いてしまわないように……かな。マティアス、次の日も口を尖らせてたもの。やっぱり、ヴォルターって優しい人だなぁ。
「何? ココ、オレの顔に何かついてる?」
「ううん。登録できたか試してみないと」
空中にハートを描きながらペンよ動け、と念じると、ペンが瞬間移動した。
できた。初めて魔法が使えた時並みの感動だ。
ヴォルターもかりっと舌を噛むと、ペンがすーっと動いた。
「……けっこう痛いな……」
「優しすぎるわ」
口の端についた血を拭うと、ヴォルターは肩を竦めた。
「本家には逆らえないのさ」
「口ではそう言うけど、マティアスはあなたに命令なんかしないじゃない」
「そう。オレがそう言い訳してるだけで、マティアスが元気になれば何でもいいんだよ」
ランチタイムで会ったとき、マティアスは思ったよりも喜ばなかった。
「痛いだけだ。バカじゃないのか」
それでも、ちょっとだけ笑ってて、嬉しそうだった。
エミィも素直じゃないわね、と肩を竦めた。
「ココ……!」
「あれ? マーリー、今日はチェス部の先輩のとこでしょ?」
「チェスで勝ったの。やっと。でも……先輩……怒っちゃって。もうゲンメツよ」
「男気がないやつだったんだな」
ヴォルターが言うと、マーリーはそう! と大きな声で同意した。相当ゲンメツしたらしい。
「……ところで、あなたマティアス・レオンハルト? 私、マーリー・ロングフェローよ。よろしく」
「ご丁寧にどうも。それじゃ、僕は戻るよ」
「愛想が悪いやつで悪いな、マーリー」
「ほんとよ。ブラッドレー公爵はもっといい人だったわよ。ばあちゃんと知り合いだったみたいで、葬式に来たの。パウロ・ブラッドレー公爵。超シブいおっさんだった」
「オレ達の親世代だからなぁ」
マティアスが座っていた席に座って、マーリーが机に突っ伏す。
「この数ヵ月、何だったのかな」
「男って精神的な成長が遅いって言うじゃない。いい男なんて他にいっぱいいるわ」
「エミィが言うと、なんかそんな気する! エミィって恋愛のスペシャリストっぽい!」
マーリーが目をキラキラさせている。
エミィは完全に困っていた。この前恋愛したことないって言ってたもんなぁ。
「前は別の先輩の話してなかったか。マーリーは、年上好きなのか?」
「いやー? 同級生はガキっぽいっていうだけで。あ、ヴォルターはちょっと上すぎるかな。ごめんね」
「心配しなくてもオレはロリコンじゃない」
「ココは? 好きなタイプとかあんの?」
「優しいひとがいいなあ」
本当はよくわからない。けれど、優しい人って嫌いじゃないと思う。
「エミィは?」
「パパみたいな人よ。賢くて、かっこよくて……」
……ん?
ヴォルターも同じことを思ったようで、一瞬目を見開いた。
エミィのパパって獏だよね。獏って、人型じゃないよね。獏のかっこいいのってどんな感じなんだろう。
「ヴォルターは?」
「全員言わなきゃこの話題終わらないのか?」
「いいから、教えてよ」
「難しいなぁ……。どんくさい子とか、好きかな。あと気が利く子」
「どんくさい子って……リアルね……」
「あれ? そんな引く?」
なんだかんだで、こういう話ってどこでだって盛り上がるものなんだなぁ。
日本の小学校でもこんな感じだったし。あのときは、遠くから見てただけだけど。
「やっぱり、吸血鬼がいいものなの?」
「オレはそういうのないかな。でも、結婚ってなると幸せにはきっとできないだろうから、相手が吸血鬼の方が楽ではあると思う。エマはどうだ? 相手は悪魔がいいのか?」
「悪魔は嫌だわ……。そうねぇ、結婚なんて想像もつかないわ」
アンブラやチェルソが戻ってきて、話はなんとなく終わってしまった。
友達への好きと恋愛の好きがどう違うか、できれば教えてほしかったんだけどなぁ。