好きという感情
初めて感情を手に入れた時のようだった。
怖い。
どう思われているんだろう。面倒だとか、付き合いきれないとか……。そうだ。きっと、そう思われてる。
「ココ、起きてる?」
「…………」
エミィは二段ベッドにつけているカーテンを無理矢理開けるようなことはしなかった。ただ優しく、無視している私に語りかけてきた。
「……ココ、ごめんなさいね。アタシ達、面白がってたわけじゃないのよ……」
「……」
「……マーリーとアンブラは、ココが恋愛感情を知らないなんて知らなかったの。アタシが悪いのよ。二人を許してね」
いつまで私はいじけているのだろう。
エミィはいつだって私のためを思って何かしてくれる。そんなことはわかっているのに。
マーリーとアンブラだって、私がただ鈍感だと思ってただけなのだろう。
ヴォルターとの約束、破ってしまった。嫌われちゃうかな。
「……先生には風邪って言ってるから……、気が向いたら、学校に来てね」
エミィの優しい言葉が静寂に飲まれていく。
ベッドの上で膝を抱いて、ただただ自己嫌悪にさいなまれている。
「……はぁ……」
出ていくタイミング、逃しちゃったなぁ……。
もぞもぞ起き出して食堂へ向かう。一応着替えたけれど、髪もボサボサのままだ。でも、もう授業も始まって誰もいないだろう。……と思ったのも束の間、ドアを開けるともっとも会いたくない人と鉢合わせた。
「……ココ……」
「……」
ヴォルター。会いたくなかった。どんな顔すればいいのかわからない。謝る?逃げる?どうしたらいいの……。
彼が手を振り上げた。叩かれる?
ぎゅっと目をつぶると、頭を優しく撫でられた。
「体調悪かったんだろ? もう大丈夫なのか?」
「……あ……」
エミィ達、ごまかしてくれたんだわ……。
「う……」
「な、泣くのか!?」
「うぅ……っ」
おろおろするヴォルターをよそに、かなり長い間泣いていたように思う。
「……泣き止んだかい?」
「土曜日、お出かけできなくてごめんなさい」
「謝ることじゃないだろ」
「……ううん。私が……全部悪いのよ」
ヴォルターは感情が読み取れない表情で、私の髪を手でといた。あ、そうだ。ボサボサだったわ。
「……あなたに嫌われちゃったかしら」
「君はずるい」
「それは悪いこと?」
「いいや、そんなことない」
ヴォルターが私の頬に手を添えて、親指の腹で腫れぼったい瞼を撫でた。口許が少しだけ、笑ってる。
「……部屋に戻るわ……。また今度お出かけしましょうね」
「あぁ」
部屋に戻って、膝から崩れ落ちていた。
ヴォルターの仕草こそ、いちいちずるいわ。
「…………。ご飯、食べるつもりだったのに……」
みんなに謝らなきゃ……。
お部屋に来てもらおう。メッセージカードを書いて、マーリーとアンブラの部屋に魔法で転送する。……うまくいってたらいいんだけど……。
お菓子を作ったり、飲み物を作ったり……。そういう、休みの日にするはずだったことをのんびりと気持ちを落ち着けながらしていった。
「おかえりなさい!」
エミィが戻ってきたとき、抱きつきながら出迎えた。彼女は驚いたようすだったけど、すぐに微笑んだ。
「元気になったの? 泣き虫さん」
「うん。ごめんね」
マーリーとアンブラも、すぐにやってきた。
「みんな、ごめんね。ありがとう。本当は、全然迷惑なんかじゃなかったの。ただ、私、急にいろんなことを知って……」
「あー、はいはい。もういいよ。大体、ごめんねって何よ? 私達は怒ってないわよ。ココが一人で怒ってただけじゃない」
『そうよ。許してくれたなら、いいの』
「……うん、ありがとう。それに、来てくれてありがとう。クッキーを焼いたから食べて」
これで、仲直り、で、いいのかな。
「それで、ココはヴォルターが好きなのよね?」
「……うん。そうみたい」
『それじゃ、改めてデートに行かなきゃね』
そういえば、ヴォルターはデートじゃないって言ってたけど。
ヴォルターは好きな人とかいないのかしら。勘違いされたり……しないかしら。彼はそんなことないって思ってるのかも。昔、『オレと君なんてカップルに見えない』みたいなこと言ってたもの。
あぁでも、みんなには相談できないわ。ヴォルターの好きな人も、きっと私くらいわかりやすいのね? わからないって言ったら冗談でしょう? って言われたし。
ということは。
「……そ、そうね」
へらっと笑って話を合わせておくしかないじゃない。
「おいしー!」
「よかった……」
その日は、丸一日喋っていなかった分を取り戻すように遅くまで他愛もない話ばかりしていた。
「エミィ、本当に迷惑かけてごめんなさい。エミィは同じ部屋だもの。気まずかったわよね」
「ううん。ココがまた笑ってくれてよかった」
「ヴォルターとは、また今度出かけましょうねって話をしたわ。朝、ご飯を食べに行こうとして会ったんだけど……あー! エミィ、どうしよう……!」
「どうしたの?」
「ヴォルターに会ったとき、髪はボサボサで目は腫れてて……あぁ……最悪だわ……!」
「……大丈夫よ」
エミィはにっこり笑った。あれ、目が笑ってない気がする……。
「そ、そうね……。美容のためにも早く寝ようかしら」
「そうした方がいいわ」
ベッドにもぐりこんで、ヴォルターの顔が浮かんだ。
やっぱり、どうしても年の差は埋められないわよね。だって今日のお昼、完全に子ども扱いだったわ。
恋愛感情はわかったけど、そのあとどうしたらいいのかはよくわからない。関係が変わる必要はない気がする。今のままで十分楽しいもの。
「……おやすみなさい、エミィ」
「おやすみ、ココ」
もうちょっと、少女マンガという恋愛のバイブルを読み込むしかないらしい。
「おはよう、ヴォルター。日程を決めましょ」
「……おはよう。日程って、何の?」
「お出かけの」
「あぁ、昨日は君も泣いてたし言い出せなかったんだけどさ、実は行きたかった美術展が日曜日までだったんだよ」
「え」
「だから……君が嫌なら、オレと出掛ける必要なんてないんだよ」
私が。
私が、約束をすっぽかしたりしたから。
「…………そ、そう……。美術展、残念だったわね……。そっか……私のせいで、行けなかったのね……」
悪いのは、全部私。
「やっぱり……私、あなたに嫌われちゃったわね。ごめんなさい」
私、ヴォルターに嫌われそうなことばっかり。昨日だって、情けないところばかりだったし。
「……あら、マーリー。おはよう」
「おはよ。ヴォルターと話してたんじゃないの?」
「ううん……いいの……」
マーリーと同じテーブルについて朝食を食べることにしたけれど、どうも食欲がわかない。
じーっと見ていると、溜め息が出てきた。
「……どうしたの?」
「…………。何でもないわよ……。ちょっと食欲がないだけ」
「風邪?」
「そうかも……」
なんて自分勝手なのかしら。自分が嫌になるわ。
みんなの好意も踏みにじって。彼との約束も破って。……私なんて……ここにいる価値もない……。
何も考えたくない。
そうだ。何も考えなくていいじゃない。今までと同じで、何がいけないのよ。
「……さ、授業に行かなくちゃ」
上手に笑えた、と思う。
私は、ただ授業に集中することによって、私の気持ちと向き合うのをやめてしまった。何も考えないっていうのは、とても楽だった。けれど、苦痛だった。
「やぁ、ココ」
「おはよう、ヴォルター。何か用かしら?」
「いや……特に用というわけでは……」
「それじゃあ、またね。私、課題がたくさんあるの。……また……レポートをなくしてしまって」
「図書室に行くのか。じゃあ、オレも」
「そうね。みんなで行った方が集中できるわ」
上手に笑えた、と思った。
1週間過ぎたもの。何もなくてもへらへら笑ってれば“いつものココ”でいられた。なのに、ヴォルターは顔をしかめた。
「なんでそんなに無理して笑ってるんだ?」
「え?」
「オレと話すのも嫌なのか?」
「な、なんで……そんなこと、言うの……」
「ココ、オレは君がわからないよ……。オレが嫌いなら、そういってくれ」
「…………私を嫌ってるのは、ヴォルターじゃないの……。あなたこそ、無理して付き合ってくれなくて結構よ」
踵を返すと、ぐいっと強い力で腕を掴まれた。掴まれているところが熱くて。ワンテンポ遅れて顔をあげると、ヴォルターは顔をしかめたまま、私を見下ろしていた。
「オレがココを嫌ってるって? 何でそんなこと決めつけるんだ?」
「お出かけ、したくないって、言ったじゃない!」
「あれは、君が来なかったからだろ! 嫌だったんだろ!?」
「嫌なんて、一言も言ってないじゃない!! 私、楽しみにしてたのに!!!!」
「え?」
「楽しみに、してたのに……、ぅ……」
「あ、ちょっ、泣かないで」
「ヴォルターのばか……」
「……ごめん。改めて今度出掛けようか」
「うん」
最近私、泣いてばかりだわ。
廊下で怒鳴り合ってたものだから、野次馬が遠巻きにこちらを眺めていた。そして誰が呼んだのか、すぐにクライヴが飛んできた。
「またお前か……! もうココに近付かないでくれないか」
「そ、そんな……私が悪いのよ。今度ね、お出掛けもするのよ。私達、仲良しだわ。日本ではケンカするほど仲が良いって言うのよ」
「あのな、ココ。そのお出掛けってのはデートのことだろ? だめだよ。まだ君は15歳じゃないか」
「デートじゃないわ。ねぇ、ヴォルター。この前、デートじゃないって言ってたわ。遊びに行くのよ」
「……君はうちの子で遊ぶつもりか」
「違います!! 遊びじゃないです!」
「え? 遊びに行くんじゃないの……?」
なんだか混乱してきた。
デートじゃなくて、遊びじゃなくて……。散歩? 散歩なのかしら。
「……僕はココの保護者だけど、……君にココを渡すつもりはないけど……君が時々可哀想になるよ……」
「仲直りしたのね!」
「……そうだね。でもそれとこれとは別だ。彼と二人でお出掛けは禁止だ」
「ヴォルターとはダメなの? エミィやチェルソと二人だったら?」
「どうでもいい」
「不公平じゃないの……。パパはヴォルターが嫌いなの? 吸血鬼だから?」
「吸血鬼だからじゃないよ。君をさらっていくからだ」
「ふふふっ、ヴォルターは誘拐なんてしないわ!」
胸を張ると、クライヴは小さく首を振った。かがんで、私の耳元でささやくように言った。
「君の―――を、さらうんだよ」
「ん? 今、なんて?」
「君の―――を」
「ピーって雑音が入って、聞こえないわ。私の、何?」
「…………あぁ、元の名前だから聞こえないのか……」
クライヴは、私にだけ聞こえるような小さな声で言った。呪いをかけた本人だから、私の名前を憶えているのね。
「この雑音は、私だけなのね。この前、エミィが何か言った時も聞こえなかったわ。ピーって音がしたの」
「……そういえば、エマが――――って口走ったときに首を傾げてたな」
「あ、またピーって音がしたわ」
「汚い言葉だ。覚えなくていい。いいかい、とにかく、デートは卒業するまで禁止だ」
「えー! デート禁止なの? 私だって人並みにデートとかしてみたいわ!」
「よそはよそ、うちはうち!」
「そ、それよくおばさんが言うやつ……!!!!」
そもそも、なぜヴォルターとはダメなのよ。……私がヴォルターのことを好きって、クライヴにまでばれてるの?
恥ずかしいわ。
「……課題しなきゃ……。じゃあね、パパ」
「僕に口うるさく言われたくなければ、人前でわあわあ泣かないことだね」
「はーい……」
歩き出してすぐ、思わずため息が漏れた。
「お出かけ、禁止されちゃったわ」
「まあ……仕方ないさ。君と話すことまでは禁止されてないし」
「そうねぇ……」
「君と一緒ならどこであろうが関係ないんだよ」
「それは嬉しいことだわ」
図書室では、廊下側のデスクで課題をすすめることにした。いつものスツールは先客がいたし、レポートでは机がいるから。
奥まった自習席はシーンと静かで、ひそひそ声で話すのも躊躇うくらいだった。でも、私は鼻歌でも歌いたい気分だったわ。だって、私、ヴォルターに嫌われちゃったんだとばっかり思ってたから。なんだかお互い、誤解してたのね。
「ココ、静かにしないと」
「ふふふ」
「さっきまで泣いてたくせに、ほんとけろっとしてるよな」
ヴォルターが私の髪をくしゃくしゃにして頭を撫でてくれた。それから、髪を手で梳いてくれる。
ヴォルターといると、ぽかぽかした気持ちになれる。
「好きだなぁ……」
それは、ぽろっと、口をついて出てきた。