恋を失った私にジャスミンを
ぐじゅぐじゅと鼻をすすると目の前の友人はとても嫌そうな顔をした。
「いい加減泣きやんでくれないと俺が泣かせてるみたいじゃないか」
「別に……置いていってもいいのよ」
「それじゃあもっと外聞が悪いだろう」
涙で深い深い海のような色の髪がまた滲む。どうしてかしら。街は色鮮やかで世界はきれいなのに、どうして滲んでいくのかしら。
「君、なんで街中なんかに出てきたんだよ。人が多いのに」
確かに外は人が多い。泣いたまま街中に出た私を、彼はこのひっそりと佇む喫茶店に案内した。初めて来たそこは別世界のように静かで、私が鼻水をすする音がとても目立った。
「私の家じゃ、嫌でしょ。恋人でもないのに」
そういうところに潔癖なのは、半年ほどの付き合いでよくわかった。問題は、彼が少し女性不審なところ。私は子供っぽい言動と押しの強さで友人という立場を獲得しているけれど、部屋は間違いなく「女」を感じさせてしまう。そもそも朝急いで学校に行く準備をしたせいで下着が落ちている。女の子の友達にだって見れられない。
せっかく、泣いていた私を泣きやませようとあの手この手を尽くしてくれているのに。
「落ち着いたか?」
「うん、ありがとう。正直意外だわ、あなたが慰めてくれるなんて」
「そりゃあ、君は友達じゃないか」
「えぇ。でも、ごめんなさいね? 怒らないでね?」
「はっきり話してくれ」
「あなたには放置されると思ったから」
だから、別に歩いてくるあなたを見ても隠れなかったのに。
またぐじゅっと啜りあげると、彼は綺麗な顔を少ししかめる。
「君は他の女の子達にあれこれ問い詰められたくないんだろう?」
「……えぇ」
「君の友達が悪い子ばかりだとは思わないがそういう配慮には欠ける気がしたものでね」
「優しいのね」
不器用だけど。
「とにかく、泣きたかったのよ。世界の一部が崩れたようだったわ。『もっと友達を大事にしないと』ですって。告白する前にふられたのよ。なんという悲劇なのかしら」
「あぁ」
「あなたが静かに聞いてくれて、とても嬉しいのよ。入学当初はあんなにうざったそうにしてたのに。今なら私の友人の一人として堂々と紹介できるわ」
「君のおかげで友人が増えて嬉しいよ」
友人、と。形容されるのがとても嬉しい。彼の中の女性は母親と私、それとその他なんじゃないかと思う。人を好きになったことあるのかしら。いつか聞いてみたい。必要がなかった、なんて言いそうね。
どうしてかしら。意外と優しい一面を見つけたからかしら。彼のことをもっと知りたい。
あぁ、でも。あの人のこともこうして好きになったんだった。とてもとても好きだったのに、ひどく独りよがりな恋だった。
「うっ……ぅ……」
「おいおい、また泣くのか?」
「な、泣いてない……」
彼が、私が手を付けなかったコーヒーを飲んでしまって立ちあがる。自分の荷物と私の荷物を一気に持ち上げる。
「泣きたいなら、どこか、もっと思いっきり泣けるところに行こう。ここなら人目も気にならないと思ったんだが、気を使わせてしまったようだ」
「う、うん……」
さっと会計を済まされて、とぼとぼと彼についていく。
「飲みにでも行くか? 盛り上がりたい? 相対性理論について語りたい?」
「……気持ちは嬉しいんだけど……その、あんまり知られたくなくて……」
「わかった、俺の家でたくさん泣けばいい。酒、用意しとくから……そうだな、午後六時半くらいに大学の正門で待っててくれ」
「ありがとう」
彼のことだから、完璧な人選と完璧な準備で出迎えてくれるのだろう。
そうして一旦別れて、私はまた泣いた。今度は、彼の優しさが嬉しくて。
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とくとくとく……とお酒が並々注がれていく。
二人でカフェも初めてだったのに、二人で宅飲みなんて誰ともしたことない。彼は言葉通りいろんなお酒とおつまみを用意していて、タオルも傍に置いてあった。
本当にただの友達なのね。私だってもう少し異性だと意識するのに。
「あ、ちょっと待って」
「?」
彼が透明なお酒の上に白い花を浮かべる。
「洗ったから安心してくれ」
「可愛い花ね。あ……この香り、ジャスミン?」
「そう。以前見た花言葉の〈愛の通夜〉っていうのが印象的だったから」
「愛の通夜……か」
本当に、マニアックな知識が豊富なんだから反応に困る。
透明なお酒に浮かんだジャスミンがたゆたうのを見て、私はたぶん、今日初めて笑った。彼がこんなにロマンチストだなんてね。
「この想いを埋葬して、勉強に精を出さなきゃね」
「そうだな」
ジャスミンの花言葉の〈愛の通夜〉はとてもマイナー。
「あなたが友達でよかった」
用意してあるものを摘まんで、彼のグラスにもジャスミンを浮かべる。
そうね、差し詰めここで込めるジャスミンの花言葉は、〈あなたについていきます〉。