コーヒーの甘さ
コーヒーの甘さは、とろけるほど。
コーヒーよりも紅茶を好む私がコーヒーを味わうのは、もっぱら彼の唇の味だ。だけど彼はそれをとても嫌がる。
私と彼は、本当に付き合っているのかしら。恋人という表現は、正しいのかしら。
彼に初めて「近付かないでくれ」と言われなかった日から、変わったことといえば並んで歩く距離が少し近くなったことくらい。後は、そうね、名前を呼んでくれるようになったわ。でも、それだけ。
「………」
「………」
「それ以上無理矢理されると吐く気がする」
「あまり吐くと歯がボロボロになるわよ」
彼のお腹の上に跨がって、両腕を床に押さえ込んで顔を覗き込む。その状態で暫く睨み合った末の、ギブアップ宣言がこれだった。
恋人である(と認めてはいるらしい)私の顔を近付けたら吐きそうなんて冗談じゃないわ。ちょっとキスしようとしただけなのに。
「…セリア。本当に」
「ごめんなさい。不安になるのは嫌だからこの際聞くわね」
「?」
彼の瞳の中で私の燃えるような紅葉色の髪の毛が揺れる。押さえつけた手は、振りほどこうと思えば振り解けるはずなのに、それをしないのは何故なのかしら。わからないのよ、この人の考えてることが。
「今日、女の子と話してたのを見たの」
「俺が?」
「えぇ。私だけだと思ってたの、あなたが話せる女の子なんて。違ったのね」
「いや、正しいよ。俺は君以外の女の子とは目も合わせられない」
見たのよ。私よりもずっとずっと女の子らしい女の子と、笑いながら話しているところ。
言葉が詰まって、うまく出てこない。泣いてもどうにもならないのに、焦って涙が出てくる。涙が出てきたらうまく声が出せなくなる。悪循環だわ。
「セリア、順を追って話してくれないか?いつ、どこで、どういう風に?」
「3限目と4限目の間に、ね。私は、実験室に行って」
「俺はたぶん、ゼミの授業に向かう途中かな」
「いいえ、売店の方に、女の子と、歩いてたわ。それで、楽しそうに」
「売店?ああ、わかったよ」
彼が不意に腹筋を使って起き上がるので、私はお腹から振り落とされて床に転がった。
「あ、悪い」
「冷たいのね」
「今日は怒ってばっかりだな」
「クリス?」
「はいはい」
彼が私を引っ張り起こして引き寄せ、携帯電話を私に見えるように操作する。データボックスを開くと、私が見た女の子の後姿が画面いっぱいに現れた。ロリータファッションにわざとらしいほどのブロンド。間違いない。
「これ、レックスだよ。罰ゲーム」
彼の操作で次の写真が現れる。上半身裸で、下はスカートをはいて写真を撮るのを止めようとしている写真。確かに、共通の友人だった。携帯電話を渡されて、よく見てみる。どう見てもレックスで、綺麗に脱毛までしていた。
「………わ、私より可愛いなんてありえないわ」
「安心した?」
「…えぇ、ごめんなさい。ちょっと、取り乱したわ」
「俺の世界には君と君以外しか女の子はいないのに」
彼がぼそっと言って、照れくさそうに傍を離れる。
彼の携帯電話を取り落としそうになって、慌ててベッドに放り投げた。
「クリストファー!」
「何」
後ろからぎゅっと抱きしめると、彼は苦しいと一言だけ言って、気にしない様子でコーヒーメーカーの電源を入れる。
「機嫌直った?」
「元々機嫌は悪くないわ」
「嘘つけ。君のマジギレ久しぶりに見たぞ」
コポッ、コポッと音を立ててコーヒーの香りが広がる。甘くてクールな、彼の香り。キスが苦いと文句を言えば、たくさん砂糖を入れてくれたんだった。
「ねぇ、クリストファー」
「何?」
「魔法のキスをちょうだい。私が、あなたを疑わなくなるように」
「何だよ、まだ疑う気だったのか?」
文句を言いつつ、彼は私を抱き上げた。嫌がって暴れるのも気にせずリビングへ連れて行かれ、私はゆっくりソファーに着地した。
「ついでに、自由を奪う形でキスしなくなるようにもしてほしいな」
ソファーの隅に追い詰められて、私がしたように両手を掴んで固定される。
「これ、けっこう怖いだろ?」
「あら残念。あなたなら怖くないのよ」
「言ってくれるね」
初めて彼からしてくれたキスはとても優しくて、とても熱かった。本当に怖くはなくて、初めてのキスが勢いだった分、初めてのキスみたいにドキドキしたの。
あぁほら、クリスのコーヒーくらい甘い時間だわ。