誰かのための自己紹介
俺の世界に、女という生き物はセリアとその他しかいない。
きっと初めて見た“女”は母親ってヤツで、しかしそれは悪魔と同義だった。悪魔という生物は想像上のものでそんなものがいるとは思えないが、いるとしたらという仮定のもとで考えると、俺は決まってあの人を思い出す。
一応生物学上の母親なので紹介すると、女という生き物は化粧品と香水の匂いをぷんぷんさせて好きな時に暴力をふるって性欲を満たし、突然発狂するもの、そんな定義を植え付けてくれた教育熱心な女性だ。余談を語れというなら俺の貞操はこの人にセックスのセの字も知らない頃に奪われたって話が話題性は十分だろう。女ってのは怖い。寮のある遠くの地方にある男子校を探して死に物狂いで勉強して入学した。多忙で滅多に帰らない父に頼みこんで、ようやく悪魔を退けたってわけだ。それでも教師という立場の女がいた。化粧っ気も洒落っ気もない、女を捨てたという言葉で友人達が評していたその人達は、俺にとっては信頼できる“先生”だった。
それから大学に進学した。理系の男女比率が大きく男に偏っているとはいえ、少数ながらも女がいる。男ばかりの生活で女嫌いと苦手意識がひどくなっていた俺にとって、化粧品の匂いが充満している入学式はひどい地獄だった。
さてそんな中で嫌でも目立っていたのがセリアだ。詳しく言えばセリアの真っ赤な髪の毛。俺はこの時期、女子はみんな同じ顔に見えていた。化粧でみんな白くて真っ赤な唇がつり上がっている。そして頬は不自然なピンク。そう、ピエロの顔がずらっと並んだ恐怖の図。その中で辛うじて女子を見分ける目安が髪の毛だった。とはいえ、極力接触を避けて避けて避けまくった。ホモと言われようが何と言われようが女子を避けて過ごした。
けれど、人類皆兄弟という主義なのか友達100人計画でも立てていたのか、それを許さなかったのがセリアだ。赤い髪をふわふわ揺らして彼女は最初にこういった。
「あなたの髪の色、海の色ね。私は落ちつきのない赤だからとってもうらやましい」と。
はいはいそうですか。そんな返事もできないまま、俺はトイレに駆け込んで吐いた。結果的に無視したことになっていたが、どうでもよかった。彼女は毎日毎日、みんなに挨拶をしたり一言声をかけたりしていた。
そんなある日、朝早くの授業に彼女が遅れてきた。化粧品の匂いも、香水の匂いもせずに、彼女はひどく申し訳なさそうな顔で小さく謝った。「ごめんなさい、どうしても席がないの。隣に座ってもいいかしら」。そして俺は「どうぞ」と普通に答えた。
間違いなく、初めて返事ができた日だと思う。ただ石鹸の香りのする彼女は、とても驚いた顔でありがとうと言った。
これが、きっと俺達の本当の出会い。俺が初めて返事をして、彼女の顔を認識した日だった。
それから次第に彼女だけがピエロから一人の人間だと認識できるようになった。とてもとても少しずつ、化粧を薄くしていったのだと知ったのはつい最近、彼女が酔った勢いで話した時だ。
それからはセリアがたった一人の女性の友人になった。下世話な人間からは交際しているだの何だの言われ、あろうことかセリアが尻軽だとか八方美人だとかいう陰口まで聞こえてきた。俺は一応、彼女に気を使って彼女から離れた。それでも彼女は変わらずにみんなに平等に話しかけた。
彼女に対しての誤解が解け始めた頃、とぼとぼと力なくうなだれて歩いている彼女を見かけた。ぼろぼろ泣きながら歩いている彼女にしつこく話しかけている男から庇うつもりで、彼女に声をかけた。目論見は成功で、彼女はほっとしたような驚いたような顔で俺を見上げてまたぼろぼろと涙をこぼした。間違いなく彼女の友人達は彼女を質問攻めにするだろう。泣ける場所を提供しようと大学から連れ出すと彼女はぽつりぽつりと独り言のように経緯のようなグチのようなことを話し始めた。黙って聞いていれば、好きな人がいたのだが当たって砕ける前に砕けたそうだ。彼女が恋をしていたことを知っていたのは、何人ほどいたのだろうか。とにかく必死に慰めたことと、泣きながら笑った彼女の顔だけはよく覚えている。
それから数年後、思いついたように彼女に無理矢理キスをされて、
「魔法のキスよ」
……魔法のキスをされて、吐かなかった。それが何を意味するのかというと、つまりは彼女だけは女だとわかった上で、拒否反応が現れないということで、
「あぁもう面倒な人。私が好きなのよ、あなたは。そうでしょう?」
「まぁ、つまりはそういうことなんだろうね」
「これだから理系は嫌なのよ」
「君も理系だろう」
「夢と希望とロマンに溢れた天文学専攻生に何を言うのよ」
「それを言うなら物理学だって」
「はいはい、素敵な自己紹介をありがとう。しかしあなたの母親には会いたくないわ、会った瞬間鈍器で殴っちゃうかもしれない」
「俺は近寄れないから俺の代わりにそうしてくれると助かるよ」
***
物心ついたとき、私の家は二つあった。一つは両親と暮らしている家、もう一つは、共働きの両親の帰りが遅い時に預けられる母方の祖母の家。
祖母は魔女だった。私の世界に溢れていた現実と絶望は、祖母によって夢と希望に変えられた。ちょっとスパイスを加えるだけよ。
さて、そんな魔女に育てられた私は魔法なんてないっていうつまらない現実主義者に恋をしてしまうんだけど、それはずーっと後の話。
「つまらない現実主義者で悪かったな」
「あら、あなたのことだってばれちゃったの?」
「君が好きなのは俺だろう」
「そうよ」
でも、クリストファーを好きになった理由には、悔しいけれど大学に入って最初に好きになった人の話が必要なの。たぶん話す機会ないもの。私だってたまには悪口くらい言いたいわ。
あの男、バーソロミュー・ベネット・シェリンガムに会ったのは、大学の入学式が終わってすぐのこと。私、天文学が勉強したくて、文系のくせに理学部に入ったの。
「空なんか見えないのに?」
「見えるわ」
元は文系だから本当はクリストファーがことあるごとに物理学のものに例えるのも、全然理解できないのよ。
「悪かったな」
それはいいとして、理学部って女の子が少ないの。全体で2割程度。2割いる私達の学年は多い方なのよ。だから、私とにかく焦っていたの。1年生の教養科目でいろんな人と友達になっておかなくちゃ! って。クリストファーにはよく無視されたけど。
「ごめんって」
「いいから黙ってて。私もあなたがお母さんの話してるとき、奇声をあげたいのに我慢したわ」
だから、先輩に理学部の花見があるから来ないかって言われたとき、とても嬉しかったのよ。先輩が頼もしく感じたし、先が見えなかった大学生活というトンネルで、ぱっと明りがついた感じだったの。
すぐに行きます、って答えたわ。それでね、「オレはバーソロミュー・ベネット・シェリンガム、BBって呼んでくれ」なんていう彼に出会ったの。セリア・ワーズワースですって自己紹介したら、「じゃあシスだ。よろしく」なんて言うわけ。その彼の笑顔はびっくりするほど鮮やかで、私はすとんと恋に落ちていたの。
彼のことがもっと知りたくて、もっと話したくて、恋愛経験のない私はどうしたらいいのかもわからず、とにかく彼の傍にいた。彼が天文学専攻だったのもいい口実になったわ。
彼がシス、と呼んでくれるのが嬉しくて、ただただ姿を見れるだけでも幸せで……。けれど、そんな日々も長くは続かなかったわ。彼に呼びだされて言われたの。「もっと友達を大事にしないと」、そして「君と一緒にいると、恋人に浮気を疑われてしまうんだ」ってね。
でも、ねぇ。彼はね、シスが恋人みたいなものだって、言ってたのよ。
この“みたいなもの”っていうのが、とってもズルいわ。はっきり言葉にしないことで、浮気したっていう決定的な現実から逃げたの。私にも恋人にも向き合わずに。えぇそう。それからすぐ別れたみたい。その、BBの元恋人ともいい友達よ。彼女、とっても怒って私に掴みかかったの。でも最後は冷静に話し合ったわ。私達、二人とも騙されてたのよって。最後はBBの悪口で盛り上がったけれど、それはまた別の話。
私はBBに例のいい先輩気取りのことを言われて、とにかく泣かないようにしてたの。その時はまだ好きだと思っていたから、彼が辛くないふりをするなら、私もそうしなきゃいけないと思ったのね。
考えてみれば、彼の建前は「ストーカーにはっきりとやめてくれと言った」なのよね。まったく! むかつく! 本音はどうだか知らないわ。キスもさせない女なんかもう相手にしたくないとか、そんな感じだと思う。本当にどうしようもないわね。
クリストファーを好きになったのは、その後よ。
つまりは、そう。結局BBは憧れだったのよ。BBとはどんなにいい感じになってもキスができなかったわ。今思えば、本当は恥ずかしいんじゃなくて気持ち悪かったんじゃないかしら。憧れってそういうものよ。見えない部分は幻想で守られてる。即物的な面に幻滅しちゃうの。
それで歩きながら、私ってばかみたいだわって思ったら、涙が出てきた。細胞の浸透圧が違うからかゆいのね、なんて考えて、涙を止めようと試みるけれどうまくいかないの。その時よ。「どうしたの?」って声をかけられた。もちろん、クリストファーの記憶の通り。わけのわからないチャラ男よ。
一瞬だけ、BBなんじゃないかと、期待したの。本当にばかね。
そうしてしつこい男から助けてくれたのが、クリストファーだったの。私、この頃にはもう彼は女性が苦手なんだろうなってことは薄々感じていたの。だから、本当に驚いたわ。戸惑ったような顔で、おろおろして私の腕を掴んでるの。もう、かわいいったらないわ。
クリストファーは、一生懸命私が泣かないように頑張ってくれて……本当はもう、その時には悲しくて泣いてなんかなかったわ。彼の気持ちが嬉しくて泣いてたの。
あのね、今にして思えば、この時にはもうクリストファーを好きになってたの。そう考えると、本当にBBはただの憧れだったのね。結局彼は恋人と別れたし、不幸な出会いだったわ。
それから、魔法のキスをするまで、私はそれまでより真面目にクリストファーを意識してお化粧を薄くしたり、集めた香水をみんなにあげたり、いろいろ頑張ったのよ。いつからか隣りを歩くのも嫌な顔されないようになって、ちょこっとだけ手を繋いでも振り払われなくなったわ。いちいち嬉しかった。
「ここで君の語尾に『ね』がつく時はキレてるときだって書き記しておいた方がいいんじゃないか?」
「この手記に何の意味があるのかしら。あの子に人生のことを赤裸々に思ったことと一緒に書いておいてほしいって言われたけれど、娘に読まれるのって恥ずかしいわ」
「いいじゃないか。彼女の好きにさせたらいいさ。……でもさ、さっきそれを言いに来た彼女、少しだけ……違和感があった」
「……。さて、続きを書かなきゃ……」