Mymed:origin

年上の恋人

「寝なさい、ね」

 肘をついて、しがみついてくる彩子さんの背中を叩く。

「寝れるわけないんだけどなー」
「……うっ、……ゆうひ、くん……ひっく」

 毎晩のように魘されている彩子さん。
 俺のせいなのかな。俺があの日、この人に近付かなければこの人はこんな風に魘されずにすんだのだろうか。

「大丈夫だよ、彩子さん」

 抱きしめて涙を拭くと彩子さんは俺の胸に顔を埋めた。
 この人は、子供のように表情がくるくると変わる。俺が子供のように甘えると嬉しそうに得意げにしているけれど、細い体は面白いくらいに俺の力には敵わない。押し倒して抑えつけてしまえば振り払われたことはない。彼女は本気を出していない、なんて言うけれど。
 大丈夫だよ。囁くと小さく返事が返ってくる。寝言だ。けれど、嗚咽が小さくなるのがとても嬉しい。
 何が大丈夫なのかはわかりもしないけど。

――せめて、高校を卒業するまで好きって言わない。

 それじゃ、全然解決にはなってない。自分でがんじがらめにした鎖を、彼女は解けるのだろうか。
 謝るのはこっちの方だ。
 子供のわがままに付き合わせて、何度も何度も心まで犯した。彼女の心は、壊れてしまった。俺が壊した。

「彩子さん」
「……ん」
「ごめんね」

 聞いてないはずなのに、ぎゅっと抱きしめる腕に力がこもる。
 首筋に汗で張り付いた髪を払って、額にキスを一つ。
 今頃、夢の中で誰かに責められているのだろうか。生徒に手を出すなんて、と。それとも俺が腕を掴んでいるのだろうか。俺を見捨てないでくれ、と。

「ごめんね」

 俺だけを考えればいいのに。

「好きだよ、彩子さん」
「ゆうひくん……?」
「うん」

 卒業まで、1年半。その間、彼女は耐えられるだろうか。
 身を裂くような罪悪感と、それが見せる毎夜の悪夢に。

「ごめんね」

+++

「古賀くん」
「……?」

 今日の授業は起きてたはずだ。

「何ですか、飯野先生」
「君が今まで堂々と寝てくれたペナルティー。私の仕事を手伝いなさい」
「はあ」

 右耳の3連ピアスがきらっと光る。
 不良教師。彩子さんは自分より飯野先生の方が可愛いだろうと言うが、この人を食ったような笑顔はどうしても好きになれない。まあ、いわゆる同属嫌悪ってやつだ。この人はただの生徒に近い先生なんかじゃない。

「古賀くん、今日は起きてたけど、それでも辛そうだったね。悩みがあるなら先生聞きますよ」
「それは俺の担任の仕事じゃないですか」
「そうかな」
「…………別に、悩みなんて特にありません。可愛い彼女が寝かせてくれないんですよ」
「あら、お熱い」

 別に嘘ではない。寝かせてくれないではなく心配で寝れないの方が正しくはあるけれど。
 大量のプリントを持たされて、印刷室の隅の机に運ぶ。

「これのね、5枚セットで左上をステープラーで留める作業です」
「……ハイ」

 ステープラーって何だ、と思っているとホッチキスを手渡された。

「おねがいします」
「ハイ」

 今日は先に帰ってご飯を作ってしまいたかったのに。自業自得か。

「その彼女とは長いのー?」
「出会ったのは1年半前だけど、そういう関係になったのはけっこう最近……1ヵ月とかそれくらい」
「ふーん。それならまあ、盛り上がるもんだよねー」
「教師の言葉とは思えない」
「若い子を抑圧した方が可哀想だよ。体力有り余ってるんでしょ。ただそれに付き合う20代女子はたまったもんじゃないからね、それはわかっといてね」
「なっ」
「私は何も聞かされてないけど。……古賀くんが寝始めた時期と筒井先生がしんどいって言い始めた時期がぴったりだから。1年半前出会ったっていうのも当てはまるしね」

 意外と鋭い。いや、そう思わせないように装ってるだけか。特に何も言わないってことは、味方と考えていいのか?

「……そこまでわかってるなら、相談しますけど」
「おっ、何?」
「別に毎晩何かしてるわけじゃなくて。毎晩、魘されてるんですよ、彼女」

 パチンとプリントをとめて、飯野先生がニヤリと笑う。

「そりゃ、可愛い彼女が心配で眠れなくもなるわけだ」
「……俺は相談してるんですが」
「何でうなされるほど悩んでいるかはわかってるんでしょ」
「俺のせい……だと思う」
「わかってんじゃん。筒井先生は真面目だからね。生徒に手を出すなんて教師失格だー……くらいは思ってるんじゃないかな」
「でも、俺はその根本的な悩みを取り消すことはできない。から、悩んでる」
「別れる気はないってことか」
「考えたこともない。でも……」

 大丈夫だと囁いても愛してると抱きしめても、彼女は魘される。それは変わらない。
 確かに別れられたら楽にしてあげられる。だけどもう、彼女は決めてしまった。俺を取ってしまった。

「『好きになっちゃいけないと思ってた。だからせめて、好きって言わない』って、言われました」
「あー……」

 パチン。話しながらも手は止めない。
 もう少しで作業は終わる。

「そこまで言わせちゃったのか。意外といい男なんだね、古賀くん」
「意外とは余計です」
「意外だよ。君みたいなガキのどこがいいんだか」
「ガキじゃないところじゃないですかね」
「へぇ、教えてほしいね」
「浮気はしない主義でして」

 飯野先生が吐き捨てるように笑う。この人は何のために笑顔の仮面をかぶるのか。俺には関係ないことだとしても、俺の前でその仮面を脱いだのは事実だ。

「で、どうすんの。根本的な原因を解消できないならさ」
「……俺としては、学校を辞めても」
「彼女を追い詰めるだけだよ。彼女ほどのプライドの高さなら大学くらい出とかないと話にならない。結婚したいと思ってるなら彼女より稼がないと共働きの事実婚で子供なしってのが現実的かな」
「アドバイスどーも」
「ま、寝顔見つめてる暇があるならいい大学いけるように勉強でもしとくことだね。しょうもない私立なんか行ったって金の無駄だよ。君がしっかりしてたら大丈夫じゃないの」

 投げやりに言って最後のプリントを机に放り出す。飯野先生は柔らかそうな猫っ毛をいじりながら溜め息をついた。

「……なんで俺の前で素を見せるんスか」
「『無邪気な飯野先生』じゃ、牽制にならないでしょ。筒井先生をこれ以上苦しめるなら潰す。私は、異性が恋愛対象なんて言ったことは一度もないからね」

 本気なのか冗談なのかわからない瞳がニンマリと細まる。
 どうリアクションしたらいいのかわからず、はあ、とかはい、とか適当に返すと、飯野先生はつまらなそうにした。

「間違ってもデートなんてしちゃだめだよ」
「わかってます」
「はい、じゃあ進路相談終わり。楽して推薦で入りたいなら授業中寝ないでねー」

 今までの低い声はどこへいったのか、いつものトーンで手を振られ拍子抜けした。本当に意味がわからない。
 飯野先生との会話を思い出しながら家に――彩子さんの家に、帰る。
 大学か。考えたこともなかったが、大卒という手札は確かにあった方がいいのかもしれない。確かに、彩子さんは学歴社会で生きてきたんだからそれも重要だろう。勉強なんてできなくていいと思ってたんだけどなあ。

「おかえり」

 その言葉だけで、こんなにほっとするんだ。
 微笑む姿がどうしようもなく愛おしくて、靴を脱いで鞄をその場に取り落とした。手を伸ばしたら、その手を握ってくれる。

「彩子さん」
「……どうしたの?」

 不安そうな声に答えず、細い体を折れそうなほど抱きしめる。

「ちゃんと、しあわせにするから」
「うん」
「だから、泣かないで」
「?」

 泣いてないよ、とやんわり言う彩子さんの頭を撫でるとくすぐったいと笑う。

「どうしたの?変な雄飛くん」

 守ろう。どんな困難があっても、悪夢からも。俺を選んでくれたこの人が幸せになるように。