シンユウ
飯野先生がご飯に誘ってくれるときはロクなことがない。別に、彼女が何か面倒なお願いをするときだけご飯に誘うとかそういうわけじゃない。飯野先生がご飯に誘ってくれた日は、何かが起こるというジンクスが私の中であるのだ。
「筒井先生、やつれてますよ。ほら、ちゃんと食べて」
「……この前、相談した件ですが……」
「あー……えっと、彼氏が寝かせてくれないっていう」
「違います。許されない間柄っていう話です!」
飯野先生がパスタをフォークに巻きつけて大きな一口を頬張る。気持ちのいい食べっぷりだ。
「古賀くんは別れる気はないって言ってたし、どうしようもないんじゃ」
「…………相手が古賀くんだって、言いましたっけ?」
「あ」
素直にしまった、という顔をする飯野先生。
でもその直後にパスタをまたくるくる巻きつけてそれを頬張る。この人の言い訳はしないところは嫌いじゃない。
「まさか古賀くんが」
「あ、本人がぺらぺら喋ってるわけじゃないですよ。消去法と仮説でかまかけたらビンゴだったんです」
化学専攻、飯野先生は意外と理論詰めで人を追いこむ。人間関係も数式に置き換えている節があるし、本気なのか嘘なのかわからない演技も多い。
とにかく変な人で、変な人と言えば飯野先生だと言っても過言ではないのだ。
「あ、でも相談されまして。筒井先生を幸せにしてねって言いました」
「そうですか」
「それで、話の流れで私が筒井先生を恋愛対象にしてることになりました」
「はぁ?どういうことですか」
「……いや、私もわかんないんですけど……つい口をついて出た冗談で、古賀くんもなんか微妙なリアクションで」
つまり古賀くんを笑わせようと冗談を言ったらいつもの本気なのか嘘なのかわからない顔で言うから古賀くんが反応に困ったわけだ。それで冗談だということもできなかったと。
ほら、ロクなことがない。まったく、どうしてそんな適当に冗談が言えるんだか。
「…………でも私、お付き合いしてる人いるし、ごめんなさい」
「え、何その……私がフラれたみたいな……。ていうか飯野先生、そんな人いたんですか」
「いますよー!……あ……付き合おうとかそういう、ちゃんとした言葉はないんですけど」
思わず息を飲んだ。飯野先生がこんなに辛そうに笑うなんて。
それでも笑うんだ、なぁ……。
「筒井先生の悩みとか痛みって、ほんとはよくわかるんです」
「……飯野先生」
いつも明るい彼女をこんな顔で笑わせることができるなんて、どんな人なんだろう。
この人も、生徒と付き合っているんだろうか。それとも、別の許されない相手なのか。
「私達、ほんと……全然似てないのに似た者同士ですよね」
「…………知花ちゃん」
「何?」
そうだ。ここはお互い先生じゃなくて、親友同士として。
「私じゃ役に立たないかもしれないけど、何かあったら言って」
「うん。何かあったら一番に彩子ちゃんに言う」
飯野先生が辛そうな顔で笑うのを、私はただ黙って見ていることしかできなかった。
***
何かあったら一番に彩子ちゃんに言う。
筒井先生はずるい。それに頭がいい。いざとなれば自分が担保になることを知ってて、躊躇いなくそれを使う。
ほろ酔いで筒井先生と別れて、いつもの公園に足が向かう。もう暗い。あの人はいるだろうか。早く帰って明日の授業の準備をしなきゃいけないのに。
「飯野先生」
いた。
ベンチから立ち上がって出迎えてくれる姿を見て思わず頬が緩む。
「知花って呼んでくださいってば」
「そうだった。今日もお疲れ様、知花」
「そちらこそ、お疲れ様」
「行こうか」
「うん」
筒井先生。……彩子ちゃん。あなたはずるくて、頭がいい。だけど私はきっとただただ狡賢い。
もう何かある、ということはないんだ。既に私は重大な背徳を犯してしまっていて。
もう、戻れないんだよ。