過去を捨てる日
男に生まれたかった。
そうすれば家督を継ぐことも、かたき討ちも、きっと許された。
今はただ、逃げている。一歩踏み出す度、喉が焼けているような気がする。
数日かけて染め上げた漆黒の衣は、どうやら役に立ったようだ。母の形見の帯も、宝物だった業物の刀も、置いてきた。逃げてきた。
これからどうしようなどとは考えていなかった。ただ、逃げなければならなかった。
逃げて、逃げて、逃げて――……、山へと入った。途中で草履が脱げて山肌を転がっていったが、拾いに戻ることはしなかった。木の根が足にかかって転び、木にぶつかる。それでも足を止めるわけにはいかず、ぜえぜえと喘ぎながら体を引きずる。
不意に、何かにぶつかり尻もちをついた。木ではなかった。
「何奴」
ずんと腹の底に響くような、男の声。見つかったのか。
ひたすら気配を消すように、息を止めた。勘違いだと去ってくれと、強く願った。
「……」
「息をひそめようとも血の匂いはごまかせん」
迷いなくこちらへ歩を進める。腕を掴まれて、そのまま体が宙に浮く。
「!? やめろ! 放せ! 放さぬか!」
「何故逃げている?」
「主には関係なきこと」
「武家の子か。あれだけ走れるのなら、その血は貴様のものではないだろう。殺人か?」
「関係ないと……、!?」
男は、わらわを肩に乗せた。そうして、笑った。
「我が里で匿ってやろう。ちょうど子供が減ったところだ」
男は、まるで太陽が出ているかのようにすいすいと歩いた。新月を選んだ。わらわには男の顔も見えないというのに。
やがて、どこか塀の中に入った。少しだけ音がこもっている。
しばらく歩いて、突然地面におろされた。反応できずに地に転がる。
「ここはどこだ」
「散舞の里という。先程貴様が分け入った山の中腹」
「山で暮らしているのか? よもや盗賊ではあるまいな」
ぱたぱたと音がした。一人の子供が、松明を手に駆けてきた。
その時にようやく、わらわを抱えてきた男が六尺はありそうな大男であることを知った。顔に大きな傷があって人相がすこぶる悪い。
「はやて様! おかえりなさい! ……この子は?」
「拾った」
わらわと同世代くらいだろうか。『はやて様』の帰還を喜んでいる子どもは、まじまじとわらわを見た。
「それなら、里長に……」
「と、盗賊になどならぬ!」
はやてと呼ばれた男に掴みかかろうとすると、ひたりと首筋に冷たいものが当たった。
「手を放せ」
小さなままごとのような、しかし鋭く冷たい刃物だった。それをわらわに、ぴたりと押し当てている。
静かに手を放すと、相手も離れた。
「……盗賊なんかと一緒にするな」
「ここは散舞の里。忍びの隠里だ」
「忍び……。父上に聞いたことがある。暗殺をするものだろう? わらわはこの手を汚しとうない」
「暗殺だけが仕事ではないが……、嫌ならば仕方がない。連れてきて遺憾ではあるが、看取ってやる」
ずいっと小刀が差し出された。
「……、どういう」
「目的を為し、今後手を汚したくないというのであれば、もはや生き抜くことは不可能。武家の子であるならば殉ずればよい」
それは、一種の名誉。
両親に殉ずれば、女として生まれたわらわにも、武士の名誉の真似事くらいはできるのだろうか。喉を突けばよい。
「はやて様、なんで……」
「口を挟むな」
「かたじけない」
小刀を受け取ると、手がわずかに震えた。
「父上と母上の仇はとった。もはや、お家の再興もできぬ」
「……」
「……父上、母上、わらわもすぐにそちらへ」
ぐっと鞘を握り直す。てのひらにじっとりと汗をかいている。
死ぬ覚悟があるというのなら、何故、わらわはあの時逃げたのだろう。本当は死にたくないと手が震える。
「そういえば……、東條家の主、一命をとりとめたようだな」
「……っ」
あぁ、やはり。
きつく目を閉じ、心の中で父母に詫びた。
ザクリ。
切り落とした髪と、小刀を地面にたたきつける。
「わらわを忍びにせよ」
睨みつけると、はやて殿はにやりと笑った。
「覚悟はあるのか」
「元より彼の者を殺し、仇を取るためならば、鬼にさえも、身を落とす覚悟はある!」
手の震えが止まった。切腹の恐怖から逃れたからか、怒りからか。この男は知っていたのだ。わらわの仇を。どうして逃げていたのかを。
「違う」
「……死ぬ覚悟か……? そんなもの、とうに」
「違う。殺す覚悟だ」
何が違うのか。……しかし、あの男の肉が抉れる嫌な感覚が手にこびりついて離れない。もっと離れないのは――……。
「仇を討つことができたとしよう。その後はどうする? 忍にも掟がある。抜け忍となれば追手を差し向けられる。貴様が最強とあらば生き残ることも叶うであろうが、期待はできまい」
「ならば何故……何故生きているなどと言うのか。何故知らぬまま死なせてはくれぬのか!」
はやて殿は嗤ってわらわの髪を掴んで無理矢理に目を合わせる。
「か弱き者よ。貴様の命など我の手の上。ゆめゆめ忘るるな。我が拾った命、勝手に死なせるはずがなかろう」
その時わらわは初めて、涙をこぼした。父母の運命よりも、自分の非力さを呪った。今頃あの人は、腹の傷を抱えてどうしているのだろうか。
何時間経ったかはわからない。ふと顔をあげると、ずいっと白飯が差し出されていた。はやて殿だった。
「食え。明日からは修行だ。我が直々に修行を付けてやろう」
「……修行って、何の、」
「忍になるための、だ」
わらわはこうして、散舞の里の忍びになるための修業を受けることになるのだった。