白雪になる日
死。その概念はべっとりと……例えるなら雨に濡れた着物のようにわらわに絡みつき、意識させた。
「、ッ」
喉の奥が引き攣る。
「う、ぐ……あ」
尻餅をついたまま後ずさる。呼吸が浅い。走って喉が焼けつくようだ。
走って? そうだ、逃げなければ。走って、走って、走って。
闇に溶け込めるように深い藍色に染めた着物。それが乱れるのも気にせずに、闇へ闇へとひた走る想像を――計画を立ててきた。ああ、なぜわらわは女なのだろう。
大丈夫、逃げ切れるはずなのだ。がちがちに強張る体を引き摺って闇に溶ける。闇に、溶ける。
逃げなければ。……そう、逃げなければ、死ぬのだ。
「っ、」
鋭く息を吸ったところで、飛び起きた。べっとり、体中汗をかいていた。
――夢。はやて様に拾われる前の。
ゆるゆると息を吐いて、外を見遣る。東の空が白み始めている。再び寝るには中途半端な時間のようだ。立ち上がり、貼りつく寝巻きと髪を払う。はやて様に拾われて短く切った髪は、あれから一年間、伸ばすように言われていた。たまに里長が綺麗に切りそろえてくれるそれは、長いばかりで邪魔でしかない。それでもはやて様が伸ばせというのなら、伸ばす他に選択肢はなかった。
里の端を流れる川。ざぶざぶと入ってしまえば、汗が一気に流れる。相変わらず貼りつく寝巻きも、先程よりもいくらか快適だ。
河原で髪の毛と寝巻きを絞り、朝日に目を細める。次いで、散舞の里を見渡す。
決して広くはない中で、里長とはやて様を中心に二十いるかいないかの小さな里。たまに情報を持ちかえる都のはやて様だけが世間と繋がっている、たったそれだけの。
軽さと速さが信条の忍術を学び始めて、一年。二月ほど前に兼久や十郎の背中を追えるようになり、一回りも二回りも小さな子供に、最近になってようやく追いつけるようになった。この散舞の里で忍術を学ぶ子供の誰ひとりとして、わらわが勝るところはない。
小さく息を吐く。まだ一年しかいないわらわが何か勝ろうと思うなんて、傲慢が過ぎる。
「白雪」
「、ッ」
息が詰まるかと思った。気配なくかけられた声に、細く息を吐きながら振り向く。
どこを通ったら里を見渡していたわらわの後ろ、外堀に近い河原に立ち得るのか、六尺もある大柄の男が影を作っていた。
「はやて様……、お早うございます」
はやて様。わらわを拾った、任務を下りた忍びの者。わらわが同年代の女に比べても小さいのを差し引いても、首が痛くなるほど見上げなければ顔が見えない。こんな大男が十郎さえ追いつけぬ速さで走るのだからいつ見ても目を疑う。
「魘されていたようだが」
「…………いいえ」
口だけで否定すると、はやて様は静かに息を吐いた。
「魘されていた」
「……はやて様がそうおっしゃるならそうなのでしょう」
はやて様は少し顔色を陰らせてわらわを見下ろす。わらわを忍びの道へ引きずり込んでおきながら、過保護な保護者。それによりはやて様を敬愛する十郎からは目の敵にされている。
「お優しゅうございますな、はやて様」
「嫌味だけは達者な奴め」
「女などこんなものでございますよ」
はやて様の脇を抜けようとすると、少し躊躇った後に名を呼ばれた。白雪。名を答えないわらわにはやて様が付けた名だ。馴染むよりも、気に入った方が早かった。
「……まだ、何か?」
「仇討ちは、まだ諦めていないのか」
「…………えぇ」
「ならば、今の貴様に仇討ちが為せると思うか」
「思いませぬ」
「我が見たてでは、十分だ」
一瞬理解しかねた言葉に、自分が目を瞠ったのがわかった。
「何が、十分だというのですか」
口の中が干上がっていく。はやて様の許可が下りれば、仇が討てる。この一年ずっと、夢に出てきた失敗の続きを。
しかし――……。
「今は確かに十郎や兼久の足元にも及ばない。しかしそう時間もない」
「時間?」
「忍びの任務を果たせるのは長くても十数年。このままゆっくり忍術を教えるよりは場数を踏んで体で覚えるよりほかない」
「わらわは……あ奴が討てればそれで……相討ちでも」
「それは貴様が決めることではない」
はやて様がくるりと背を向ける。瞬間、数歩前に背中が見える。
「着替えてこい。…………里長より、正式に通達がある」
「はい」
涼しいを通り越して冷え始めていた体を抱きしめ、寝屋へと戻る。寒さからか、歯がかちかちと鳴っていた。
*
「東條屋敷を、禍根残さず焼き討ち」
里長の言葉を繰り返せば、里長はゆっくりと頷いた。
纏った衣の衣擦れの奥で、里長の証の首飾りがしゃらんと音を立てる。里長はひどく小さい人で、ひどく強いのだと聞いたことがある。しかし仕えた主君の一族は滅び、里に戻ってきたらしい。ここにいるはやて様は大抵そんなものだ。伊賀衆のように名前を知られてはいないため、いなかったこととなる。忠誠のままに腹でも切るのかと思えば、そうでもない。
散舞は軽い。その所以はここにもある。容易く裏切るのだと言われれば風を掴むなど大それたことだと返事する。散舞が執着するのは里の存続。主君の忠誠は一代限り。武家出身の者はわらわくらいのもので、わらわには理解できない、決して相容れぬ散舞の精神。
「白雪の件は知っておる。しかし、仇討ちは役所を通さねば認められぬ」
「……はい」
「白雪は未遂とはいえ罪人だ。認められるはずもない。今回の件は、白雪の仇討ちとは別じゃ」
「別とは?」
「依頼された標的がたまたま白雪の仇だっただけだ。そしてこちらは『たまたま』任務がないお主に命じる。ただし、闇に紛れての焼き討ちが妥当。人目に付くようなことはもちろん、名乗り上げも許さぬ」
「…………しかし、…………。わかりました」
東條屋敷を皆殺し。禍根残さずとは、そういうことだろう。わらわのような者を生かさずに、屋敷に火を放つ。
「…………里長は、わらわにできるとお思いですか」
「不安か?」
別の任務でも与えられるのであろう共に呼ばれた兼久を見遣ると、兼久は無表情でこちらを見返した。一瞬間を置いて、小さく息を吐く。
「俺に補佐をさせてください」
「……それで確実だと思うのならば構わぬ」
「都のはやて様は刀狩りというものが起こっていると言っていましたし、二人でも大丈夫だと思います」
「………………そうであるな」
都のはやて様から、刀狩りの詳細についての連絡はない。刀狩りという言葉だけを信じても良いものなのか、わらわには判断ができない。……しかし、武士の命である刀をこの時世に取り上げるような真似をするであろうか。武家しか見ていないわらわでは、他に刀を持つ人間がいるのかどうかなどわからない。
しかし東條屋敷の間取りは、大体分かる。いざとなれば兼久もいる。問題はない。はずだ。
「……はぁ……」
「刀狩りってのはどうやら百姓だけらしいなあ」
里長との会話を思い出していたわらわの横で、兼久が小さく溜め息を吐く。闇に紛れた潜入はあっけなく、定番の天井裏への潜入も滞りない。
東條の枕の傍に刀と脇差がしっかり置いてあることを除けば。
この分だと腕に覚えのある武士が何人かはいるだろう。武士は戦場ではもちろん、体の記憶だけで動く寝起きも油断ならない。
「兼久、一人ずつでなければ無理だ」
「だな。端から片付けて行くぞ」
「承知した」
兼久と別れ、低い天井裏をずりずりと這って行く。伸びた髪が本当に邪魔だ。
はやて様が任務を遂行出来たら褒美をやると言っていたが、髪を伸ばせという命令を撤回してもらおうか。何を思ってわざわざ命令したのかがわからない。邪魔なだけだ。
「…………端か」
一番端の部屋の主は起きていた。東條に拾われ武士にでもなったのか、やたらと嬉しそうに武具の手入れをしている。まだ髪を結っているほどの子供。
「収集癖は治らぬか」
仇の子であるわらわも、東條に拾われて住み込みで働いた。掃除も洗濯もした。
不意に若者が天井を見上げ、躊躇うことなく刀を真っすぐ天井に差しこむ。咄嗟に横に転がったものの、入念に手入れをしていたらしいそれは腹の脇を軽くえぐっていった。必死に声を殺して腹を押さえると、しっかりとした、低い声が聞こえた。
「いるのはわかっている」
まさか。音を立てずにいたはずなのに。しかし見つかったのなら仕方ない。戦闘用のクナイを握りしめて、若者の後ろに降り立つ。刀は天井に突き刺さったままだ。
「え、本当に!?」
「は!?」
クナイを振りかぶると、わあっと大きな声を上げて避ける。
「声を出すな!」
……首。喉だ。喉を狙えば黙る。そうだ。
一歩下がって投擲用のクナイを投げる。が、一つも届かない。今度は前に出てクナイをまた振りかぶる。
相手もめちゃくちゃに脇差を振りまわしている。少し大きめである戦闘用のクナイも、脇差ですら長さが違う。クナイを投げ、若者がひるんだ隙に目の端に映った刀に飛びかかり、体重をかけて天井から引き抜く。
「拙者の刀!」
「わらわが刀の使い方を教えてやる」
両手で握れば、手になじむ。夜な夜な、見よう見まねで刀を振る練習をしていたことがあった。重くて持ち上げられずにいると、東條が買い与えた薄い刃の業物。
「これはわらわのものだ」
わらわは、父母の仇、東條を討つ。今日は二度目の仇討ちだ。しかし失敗したのは、このような幾重にも重なる東條と過ごした日々の面影を引き摺ったから。
両手で握り、踏み込む。真っすぐ振りおろすと、脇差は弾け飛んだ。脇腹を庇い歩み寄ると、若者はがちがちと震え涙をこぼした。
「禍根を残してはいけないのだ。悪いが、死んでくれ」
「い、いやだ……拙者は……!」
「さらば」
喉を。喉を狙わなければならない。声を出せないように。血を吸ったことのない刀。同い年かそこらの子供を殺し、わらわは生きて戻るのだ。知らず、くつくつと喉が鳴った。
仇だ。一時の恩など、父母を喪った悲しみの前では懐かしむに足りぬ。一時の恩など。
「…………わらわが殺す、わらわが……」
刀を振り、血を払う。クナイを定位置に戻すと、障子を開けて廊下に出る。
歩く度にぺたぺたと音がする。
「おーい、正造、騒ぐんじゃねえ」
人の声のする方に向かう。ぺたぺた。血に濡れた足音が、やけに大きく耳に届く。
「正造」
「先の若者のことか?」
「、曲者」
刀を振り下ろすと、面白いほど血が舞った。とどめを刺す必要はない。足に刀を突き刺すと、男はその場に倒れた。
何人もそうして、嫌に静かな屋敷を彷徨う。
次は、屋敷の主。場所はわかっている。
「東條は、わらわが仇」
ぶつぶつと口に出しては屋敷の中心に近付く。東條の部屋へ。
さあ、殺すのだ。東條を。
さっと部屋に入り込み、刀を遠ざける。自分が持っている刀を深々と畳に突き刺すと、ザクザクと耳障りな音がした。
「……つばき?」
目を瞠ってしまったのがわかった。顔を、隠しているのに。
東條が起き上がりこちらを見ている。行燈の火が揺らぎ、その顔をぼんやりと照らす。
「わらわはもう、つばきではない」
「生きて、いたのか」
「わらわは父母の仇を討つまで死ねない」
「…………元気そうで、何よりだ。つばきの部屋は残してある。お前の母の帯も」
記憶と変わらない笑顔で、今にも頭を撫でてくれそうに笑う。わらわはいつもその笑顔が、どうしようもなく、苦痛で。
「……火を」
「?」
「火を、放ちます。逃げられない。わらわはもう、つばきではない。忍びの者だ。あなたを殺せと命じられた」
「落ち着きなさい」
「落ち着いてなどいられるか! 何故わらわの刀をあの若者に与えた! 何故……何故あの時、わらわを拾ったのだ! わらわは……仇を、討たねばならぬのに!!」
「落ち着きなさい。首を狙え、今度は失敗するでない」
カチカチ、耳の傍で歯の噛みあう音がする。
東條が刀を掴んで自らの首に添える。
「……わらわの、仇。仇、だ。仇……」
「そうだ、仇だ。引くだけでよい」
「……お館、様」
「同じ失敗をするでない。手柄を上げて戻りなさい」
同じ失敗。恩と感謝が憎しみに打ち克ち、仇である東條を討てなかったこと。けれど、恩を感じずにはいられないあの日々を、わらわは忘れられずにうなされる。
東條がわらわの刀を奪い、勢いよく自らの腹に突き立てる。
「お館様!!」
「違う。拙者はお前の仇だ。そうであろう」
そう。仇。
父母を喪った悲しみに比べれば――……。
優しく、養われた日々など。着物を買い与えられ、剣術を教えてもらい、読み書きを習い、温かい布団で寝た日々など。
「で、できませぬ……。お館様……」
父母を喪った悲しみに比べても大きすぎる、東條への恩。
「親……不孝者……」
東條は笑って、もう一度深々と刀を差しこんでいく。止めようとしても強い力で手を払われる。
なんで。問うてもその返事はない。
「つばき、楽にしてはくれないか?」
「…………や、やだ。やめてくださいませ」
「駄目だ。このために一年、生きてきた。豊臣方に殺されるくらいなら、つばきの手柄となろう」
腰に手を伸ばす。大ぶりのクナイが、鈍く光っている。クナイを握る手を掴まれて、首元に誘導される。
「お館、さま」
「……さらば、」
首の皮を切ると勢いよく血が噴き出した。腹の出血とは比べ物にならぬ勢いに、見る間に東條の瞳から光が消えうせていく。
思わず座り込んでいた。恩義に報いることもできず、仇を取ろうにもその仇に手伝われる始末。情けない。情けなくて、涙が出てくる。そうだ、これは、自分のふがいなさのせい。決して、悲しいからなどでは。
しばらくそうしていたが、ぐっと腕を掴まれ、腕を引かれるままに立ち上がる。
「白雪! 終わったのか」
「…………兼久」
「血だらけじゃねぇか!」
「……そっちも」
「返り血だよ。そいつで最後だ。火を放つぞ」
「承知……」
業物を拾い上げ、背中にくくりつける。兼久が東條の部屋の行燈を倒し、火が燃え広がるのをゆっくりと見ていた。
「……大丈夫か? 帰ろう、白雪」
「そうだな。わらわは……白雪だ」
つばきではなくて。
「い、たた……」
若者に脇腹を抉られていたのだったと、気が抜けてから思いだした。
「兼久、お腹痛い」
「どうした?」
兼久が肩を貸してくれて里へ向かうために歩き出す。東條以外にまともな武士がいなかったにしても無傷とは、さすがと言うべきか。
「天井裏にいたら刀で刺された」
「はあ!? そんな腕の立つ武士いたのかよ!?」
「いや、たぶんやってみたかっただけだと思う」
「どういうことだよ……」
火で傷口を潰してしまった方が楽だろうか。じくじくと痛む腹を押さえて燃え盛る屋敷を見ると、少し背を反る体勢だからか激痛が走る。兼久に悟られないように会話を続ける。
「決め台詞の、練習とか、するであろう、兼久も」
「しねぇよ。あーもー、息切れしてんじゃねぇよ。おぶってやるよ」
「わらわ一人では、無理だった。ありがとう、兼久」
忍びになって初めての任務は、一生忘れ得ないものとなった。
しかしもう、殺すのを躊躇う相手はこの世には一人もいない。わらわの何かが壊れた日でもあった。