忍びになる日
大晦日はひどく冷え込み、里の正月は身も凍る寒さに震えることになりそうだった。里の端を流れる川も肌を刺すような冷たさで、顔を洗おうにも冷たさが痛みに似た感覚で指に突き刺さる。
わらわが散舞の里に来て二度目の大晦日となるが、師走の忙しさも正月の準備も無い普段通りの様子には、肩透かしをくらった昨年と同じ空虚さがある。餅が食べたいと言えば餅つきくらいはするかもしれぬが。
「白雪か……おはよ」
随分と伸びた髪を払って振り返る。兼久が眠そうな目をこすってあくびをかみ殺していた。耳から首にかけてべっとりとついた血に目を奪われる。よく見ると髪も不自然な束になっていた。
「……それは返り血か?」
「朝方任務が終わったから、血を落とさずに寝て……あーあ、固まってる。白雪は? 腹の傷はもういいのか?」
腹の傷。夏に東條屋敷を焼き討ちした時の刀傷のことだ。一緒に任務に行ってわらわが怪我したのを気に病んでいたらしく、会う度に同じことを問われる。
心配性なのか、何か別の魂胆でもあるのか、わらわのことをそれほど好いているわけではないくせに。
「以前も言ったが、ほとんど治った」
「そうか、よかった」
「……任務を受けすぎではないのか?」
「早く里長に認められてはやてになりたいからな。経験はいくら積んでもいいと思ってる」
「はやてなぁ……。なりたいとは思わぬが」
「そんなの、白雪だけだ。顔洗いにきたけど、風呂に入った方がよさそうだ。じゃあな」
兼久が手を振って歩いていく。
河原にしゃがみ水面を見ると、枯れ葉がとうとうと流れてきた。川に指先を浸して掬い、枯れ葉を摘まみ上げる。水に濡れた葉はてらてらと光り、古びた鏡のようにぼんやりと辺りを映す。わらわの顔や、そろりそろりと近付いてきたはやて様をも。
さっと振り返るとはやて様はぴたりと立ち止まった。
「気配が掴めるようになったか」
「…………そうかもしれませぬな」
偶然なのだが、まぁ、出来がいいと認められるのも悪くない。兼久は里長に認められたいと言っていたが、わらわはこの世界に引きずり込んだはやて様に認めさせてやりたいと思っている。
「よし、次からは不意打ちで攻撃する」
「なっ、何を」
「常に修業だと思え。寝ている時も、常に集中するのだ」
「…………」
どうやら、自分の平穏な時間を縮めただけのようだ。溜め息を吐くと、はやて様は肩を竦めた。
「お前ははやてになれる。お前にやる気がなくても我は手を抜くつもりはない」
「それなら十郎や兼久も」
「あいつらは実力もやる気もある。放っておいてもはやてにはなれる。だがお前はそれ以上の……」
「……くだらぬ。里長に呼ばれているので失礼する」
里長からの呼び出しには二つ、子供達が何かのついでに呼ばれていると教えてくれたり里長が直接ぶらりと呼びに来たりするものと、赤い石が矢尻になっていていかにも怪しい文が結んである矢が届くものがある。文には任務のついでに買ってきてほしいものなど、他愛ないことが書かれているのだが、重要なのは赤い石の矢尻だ。任務を受けたくなければ来なくてもいい、必ず人を手にかける任務であるということ。行かなければはやてになれることはないが、自らの手を血に濡らすことはない。
この残酷な選択をして、この里の者ははやてという修羅になる。わらわがこの赤い石の矢尻を見たのは今回が初めてだ。人を殺す任務は二度目だが、前回はわらわの仇討ちという私的な事情があったので拒否はできなかった。
文には十郎と兼久と一緒の任務なのでそれも考慮しろと書かれていた。兼久はともかく、十郎ははやて様に拾われ、はやて様に修業をつけてもらえるわらわを目の敵にしている。協調性など無いに等しい。
けれど、任務となれば別……なのではないかと思う。任務に私情を挟むようならその程度の実力ということだ。はやて様が実力あるという二人の仕事ぶりをしっかりと見てみたい。それに、その二人以上の力を得られるとはやて様が言うならば、どれほどまでにわらわを育てようとしているのか。この目で確かめなくては。
「失礼致す」
「お前もなのか」
入るなり十郎の鋭い視線に見舞われる。兼久は身じろぎもせずに里長の前に正座していた。
「さて……いつかは来ないようだな。今回の任務は三人で行ってもらう」
里長がゆっくりと話しだす。
「下の町にはやてを一人置いて町を守る代わりに都との連絡や買い物を行う際の橋渡しになってもらっている」
「はい」
「最近風魔の者かもしれぬ着流しの男がよく来るそうだ。男は町に滞在はしていない、おそらく野宿だ。はやてが町から離れるわけにはいかぬ。修業がてら正体を暴き、里に害があるようなら消してこい」
「…………その不確定さにしては、赤い矢尻でしたが。だからいつかも来なかったのでは」
「あぁ、そっちが本題だ。その町のはやて…………伊輔が裏切っている証拠を先日いつかが掴んできた」
伊輔。その名を聞いて十郎と兼久は複雑そうな顔をした。知らぬ名だが、下の町に買い出しなどで行った時に世話になったはやて様で間違いないだろう。
いつかが来なかったのはこのせいか。
「証拠って、何を」
「最近他の里からの襲撃が多いのは知っておるな? 伊輔は里の所在を高額で教え、敵の情報をこちらに伝えていた。いつかは返り討ちにした甲賀の者が持っていた里の所在と里への入り方を書いた紙を見つけた。それだけでなく、伊輔の血判もあった」
そんなものを甲賀や伊賀の里に持って帰っていたら今頃散舞の里はない。おそらく情報を渡してすぐにはやて様が倒し自ら回収していたか、口頭で伝えてわらわのような子供達に倒させていたのだろう。
その伊輔というはやて様は、虫も殺せぬ好青年といった感じの優男でいつも微笑んでいた。二重に人を騙してまで金を集める必要があったのだろうか。大金を積むようなものなど、あっただろうか。
「今回の任務は裏切り者の処分と怪しい男の調査」
「……では、行って参ります」
立ち上がる二人に続く。里の出口まで歩くと、白い息を吐きながら十郎は首を振った。
「……伊輔さんが……」
「仲が良かったのか? 残念だな。さて、手順を確認しよう。まずはその伊輔とやらに怪しい男の所在を聞き、男を調査した後、伊輔を闇討ち。いいな?」
「今回ばかりは白雪がいてよかったかもな、兼久。俺達が私情を挟みそうになったら思いっきりぶん殴れ」
「おぉ、又とない機会だ。思い切りいかせてもらう」
「いつか、はやてになるの諦めるのかな」
いつかは女の子供の中ではわらわに次いで年長で、十郎や兼久と共にはやてに最も近い子供のうちの一人だ。それぞれ肉弾戦が得意な十郎と知能戦が得意な兼久と対等に渡り合えるいつかは、身軽で舞うように任務をこなしていく。はやての名に最も相応しいのはいつかで、十郎や兼久は得意なものでうまく力を補っているというのははやて様の弁だ。けれど精神的にはわらわにすら劣る、とも言っていた。根が優しすぎるのだ。
元よりはやてには向かぬとぼやいていた子だ。飛脚にでもなりたいと言ってはわらわの髪を結って遊んでいた。面倒見がいいので次の里長にでもなればよいのではないかとわらわは思っているのだが。
「……なぁ、はやてにならぬ里の者はどうなるのだ?」
「里から出ていくこともできずにはやて候補のまま、ずっと小さい任務を続けていくことになる」
「その割には貴様らが最年長ではないか」
「そう。表向きは候補のままだけど、いずれ無茶な任務を与えられて死ぬ。里のお荷物なんていらないから」
「わらわは……いつかは里に籠って里長になればよいと思うのだが」
「現実的じゃないな。はやてを経験しないとできない助言もある」
「……いつかは特に伊輔さんに懐いてたから。だから来れなかっただけだ。他の任務はちゃんと受けるさ」
兼久が不意に立ち止まる。
「……町だ」
朝露に濡れた町が朝日にきらきらと輝く。
「……わらわ達は、伊輔殿に不審な男の話を聞きに参っただけ。そう装うのだぞ」
「あぁ」
「俺、そういうの苦手だから外で団子食ってる」
サクサクと枯れ葉を踏んで歩き出す兼久に、十郎と顔を見合わせる。珍しい上にどちらかと言うと十郎の方が苦手そうなことだ。
十郎の後ろを歩きながら不審な男について考える。おそらく風魔の者だと里長は言っていたが、風魔というのはどのような忍びなのだろうか。町人の子供のような着物の帯を正し、また歩き出す。
未知の忍び。そして、はやてにまでなった裏切り者。
ぞくぞく、身が震えた。
「行くぞ、十郎」
「おい待て、なんでお前が仕切ってんだ」
「何を今更」
戸に手をかければ、伊輔殿がいる。……というところで、十郎がわらわをぎろりと睨む。
「任務の時くらいわらわに突っかかるな」
「お前こそ、弱いくせに偉そうにするな」
お互い掴みかかろうとしたところで、目の前の戸が開いた。
「お前達、みっともないからさっさと入りなさい」
伊輔殿は、人好きのする笑顔を見せて奥に引っ込んだ。
平静を装わなければならない。小さく喉が鳴る。
「まったく、仲良くしなきゃだめじゃないか」
「…………十郎とは無理でございますな。さっそく本題ですが、風魔らしき男がいると」
「その件、お前達が来たのか。町の北のはずれから町に出入りしている男で、大体えんじ色や橙の着流しを着ている」
「派手すぎやしないか」
「風魔っていうのは派手好きが多いんだよ」
「あの……わらわは風魔の忍びがどのような戦い方をするのか、知らぬのですが」
「風魔は投げ……投擲に長けている。遠くから狙えばいいので機能性は重視しない派手な格好をする。近付いたら蜂の巣にされる可能性もあるから、安易に近付いてはいけないよ」
投擲、か。
避けながら近付き、更に避けながら攻撃する。……やはりいつかの方が得意そうな任務だ。三人もいれば大丈夫だろうか。
「まだ外は明るいし、任務には向かない。うちで飯でも食うか?」
「あ、はい」
「十郎、兼久は」
「団子食うって言ってたし別にいいだろ」
ひそひそと話していると、食事はすぐに出てきた。美味しそうな、ありふれた食事。どこかの大名に召抱えられていたら、この伊輔殿ももっと豪勢な食事をしていたのではないだろうか。
「はやて様は町での任務はお暇ではありませぬか?」
「そりゃ、俺も派手な仕事がしたいと思ったこともあるけど、これも必要なことだ」
料理を口に入れてすぐ、十郎に肩を掴まれた。
「今の吐け!」
「ん?」
「いいから吐け! 何か入ってる!」
慌てて吐き出すと、伊輔殿は悲しそうに笑んだ。水で口をゆすぎ、土間に吐き捨てる。
「成長したね、十郎」
「俺達を殺すつもりで?」
「そんなに警戒してるなんてね。その様子じゃ……里長にはもう知られているようだね」
「…………わらわ達は、里の裏切り者を処分せよとの密命を受けてここにいる、そうであろう十郎」
「伊輔さん……。なんでですか」
「裏切り者に耳を貸しちゃいけない。基本中の基本だ、十郎。俺が逃げる間に寝ていてくれるだけでよかったんだけどね」
口内から薬を吸収でもしたのか、少しだけ頭が痛い。眠さとは違うような気もするが……。
「甘言に騙されるなよ、十郎」
「そうだぞ、盛られていたのは猛毒だ」
不意に部屋の奥から兼久の声がした。わらわ達が気を引いている間に部屋の探索を。あぁ、だから別行動にしたのか。説明くらいしてくれ。
しかしながら猛毒か。つまりあれを飲みこんでいたら寝るだけでは済まなかったのか。ここに至って嘘を言うとは。
真っ当な事を言って直後に嘘を言うと信じやすいのだろうか。なるほど、今後の参考になるな。
「兼久もいたのか」
ゆっくりと兼久の方を向く伊輔殿にクナイを抜いて勢いはそのままに投げつける。
「おっと」
容易に避けられたそれを兼久が掴み取る。伊輔殿は十郎を突き飛ばして家を出た。
「下手くそ」
「うるさい」
「喧嘩してる場合じゃない、追うぞ」
兼久と十郎に続いて家を出る。伊輔殿はどうやら町の北、件の風魔がいる方向へ向かったようだった。
「風魔と合流されたら厄介だ」
「わかってる」
十郎と兼久が二手に分かれたので真っすぐ追うことにすると、伊輔殿はわらわに的を絞ったようだった。しめたとばかりにニタリと笑う。
クナイを投げると当然の如く避けられて投げ返される。肩や腹を掠る痛みを堪えてじりじりと町はずれの空き地に行くと、影に隠れていた十郎が飛びかかる。
「後は頼むぞ」
「休んでろ!」
体力をかなり消耗したらしい。歩く度に膝ががくりがくりと折れて転びそうになる。
せめて足手纏いにならぬようにと雑木林の木に登って隠れることにした。止血をしつつ十郎を見ているとわずかに押しているようだった。しかし曲がりなりにもはやての名を背負っている者には敵わない。
十郎が伊輔殿の腕を取り、首に足を絡めて体勢を崩す。と、先の十郎のように身を潜めていた兼久がクナイを伊輔殿に突き立てる。
「……!」
やったか?
「仮にもはやての名を与えられている者に子供が3人……侮りすぎではないのか」
かなりの至近距離で、聞いたことのない声が聞こえた。居所を探すと、近くの松の枝に派手な遊び人の恰好をした狐面の男が立っている。
「風魔の者か。貴様こそわらわを侮っているのではないか」
「これは珍しい。武家の子か。そこからその体で何ができる」
「……死ぬことくらいは」
「そういう風流でないことは嫌いだ」
風魔はその場に座り、袖から何かを取り出しこちらに向かって投げつけた。投擲にしては速度が緩く、簡単に掴めた。
小さな風呂敷に包まれた硬いもの。壷のようなものを取り出すと、風魔は鼻で笑った。
「傷薬だ。怪我人を殺すのは風流でないのでくれてやる」
「……後悔するがよい」
先ほど伊輔殿に毒を盛られたばかりなので、猫か何かで試してからにしようと着物に入れる。
「警戒するか。いい心がけだ」
「さっさとどこかへ行ってはくれぬか。貴様と悠長に話していたと知れたらわらわが仲間に殺されてしまう」
伊輔殿はさすがの身のこなしで致命傷を避けているようで、わずかに押されているものの決着はつきそうにない。
風魔の弱点は何なのだろうか。風魔の投擲とやらは、どのくらい遠くまで届くのだろうか。あまり遠くでもこのような場所では木が邪魔でそれほど遠くではないだろう。しかし、距離を詰めるとなるとどうするべきなのだろうか。
「……あのはやてとは、好いた者が同じだった」
「は?」
「我らのような者に好かれる女だった。誰にでも優しい団子屋の娘。誰にでも優しいが我らにとっては唯一の」
団子屋……兼久はよく団子屋に行っているが、わらわは行ったことがない。みたらしが美味いと兼久は言っていた。
「散舞の情報を得るために来たのではないということか?」
「そうだ」
「しかし証拠がない。風魔に関わりのないこの地で貴様が目障りなのは確かだ」
「そうだな。……女が死んだ。ここを去るつもりだ。あのはやても……殺されるために偽の情報を流したんだろう」
「自害は……はやての名では、できぬから……」
散舞の里に何もかも縛られ、自由も意思もない。だからわらわは進んではやてになりたいとは思わぬのだ。
伊輔殿の体力も、二人分には敵わない。伊輔殿の命は最早風前の灯のように思われた。
「その話が本当ならば、さっさと里に帰るがよい」
「……そうだな。誠実で、良い恋敵だった」
またがさりと音がして、東……散舞の里とは反対側に歩いていく。
白雪、と兼久に呼ばれて見ると、あちらも決着がついたようだ。
ぜえぜえと息をしている二人が立ち尽くしている。
「終わったか」
「いや……だが、もう……。……始末頼んでいいか?」
「よかろう。曲がりなりにもはやて様だ。疲れただろう」
十郎と兼久を見送り、伊輔殿が倒れている傍にしゃがみ込む。
「はやて様……伊輔殿、団子屋の娘の話は本当か?」
「……しらゆき……。風魔に、会ったのか」
本当なのだな。
袖から傷薬を取り出して伊輔殿の傷口に塗り込む。辛そうであった伊輔殿の呼吸が落ち着いてきた。
「……良い恋敵だったと」
「そうか」
「もう行かねば」
「とどめは刺さぬのか」
「必要ありますまい」
裏切者ではなかったのだ。
わらわは殺したくない。表向きには情報を得たいつかも正しく、十郎と兼久ははやてという存在に勝った。すべてが丸く収まる手ではないか。
「俺と風魔が話を示し合わせているとは思わぬのか?」
「伊輔殿は言い訳をせなんだ。あの風魔も傷薬をくれた。……もし里が襲われてもあの二人がいれば大丈夫であろう」
伊輔殿はにたりと笑って目を閉じた。
「真実を知ったのなら殺してくれればよいものを。お前が一番残酷だ」
「自害すればよい。もう貴様はただの伊輔殿だ。傷が癒えたら東に行くとよい。恋敵に会えよう。さらばだ、伊輔殿」
「さらば……」
伊輔殿が住んでいた家に向かうと、十郎がぐうすかと寝ていた。兼久も疲れた様子で壁に凭れかかっている。
「白雪……また怪我しただろ」
「掠り傷だ」
「…………。伊輔さんのとどめ……刺さなかっただろ」
「はて。何のことやら」
もし、わらわが騙されていたら。
ここにいる三人は死ぬのだろうか。
「……兼久」
「ん?」
「団子屋の娘は、生きていたか?」
「いや……最近流行り病で死んだみたいだ」
「そうか。世は無常だな」
信じてみるのも悪くないと思うのだ。