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はやてになる日

 さて、はやて様に拾われて幾年が経っただろうか。
 わらわは意外にも十郎や兼久に追いつけるほどになっていた。いつかには及ばないが。任務もそれなりに任されるようになった。ただ、伊輔殿以降は赤い矢尻での呼び出しはなく、東條と伊輔殿の結果を鑑みれば、わらわははやてとなるための重要な任務は全うしていないことになる。

「白雪」
「……いつかか」
「わかってたくせに」

 いつかはくすりと笑って隣に腰掛けた。互いに背が伸び、わらわははやて様に言われるまま、髪も伸びた。少し伸びたらざんばらに髪を切り落とすいつかは、この髪をいじりによくわらわの元に来る。

「ずいぶん伸びた。また毛先をそろえてもらわねば」
「本当に伸びた。もうすぐ腰まで届く」

 いつかは嬉しそうに、わらわの髪を梳く。編んで、ほどき、また梳いて編む。
 そんなに好きならいつかも伸ばせば良いと言ったことがある。その時、いつかは無表情で邪魔だからと言った。わらわにも邪魔だというと一笑に付された。

「白雪は少し目つきが悪いけど、武家のお姫さまのままだね」
「わらわははやてには向かぬゆえ」
「ううん。それが武器だ」
「そうであろうか」

 諜報が得意だ。香を焚き髪に香りを付けて振袖を着て街へ出ると、誰もわらわを怪しまない。どこぞの屋敷さえ正面から入ることができる。
 はやて様はそれを見越してわらわを拾ったのであろうか。
 満足したらしいいつかが任務へ行くと言ってふらりと立ち上がる。

「里長、きっと暇してる。行ってみるといい」
「……そうする」

 わらわが里長の元へ顔を出すのは任務に呼ばれた時と、もう一つ。
 髪を切ってもらう時。
 里長はいつかのようにわらわの髪をいじるのが好きらしく、いつかと同じようにわらわの髪を飽くまで梳いている。しかし、編むのではなく固く一つに結うのが好みのようで、ギリギリと髪を引っ張り一つに結われる。武士の髷を結うかのように。

「里には慣れたか」
「みとせ、過ぎましたゆえ。慣れもします」

 結った髪をほどき、丁寧に梳かされる。毛先を揃えて真っ直ぐに切られていく。

「いつかは、まだ髪を梳きに来るか」
「……来まする」
「白雪とは同年代だ。羨ましいのだろうな」
「いつかに髪を伸ばしていいとはおっしゃらないのでございますか」
「……はやては、女ではない。無論、男というわけではない。はやては、はやて。道具なのだ。いつかは、いつかはやてになるから、いつか。捨てねばならぬものを与えてやることほど酷なことはない」

 切りそろえた髪を、また梳く。
 いつかと里長に捕まるとわらわの自由は丸一日ない。

「里長もはやてであったのでしょう。どのようなところに仕えていたのでございますか」

 髪を梳く手が止まり、一瞬の後にまた髪を結われ始める。

「儂は、武士に仕えていた。ちょうど……、今のような激しい戦が各地で起こり始めた頃」
「……お家に仕えるわけではなく」
「主は、ただ一人」

 里長が、今、どのような顔をしているのかは、後ろ髪を梳かれているわらわにはわからない。
 しかし、瞬きの間――たった一言、いや、たった一音、里長の声が湿った気がした。

「……」
「里におる頃は、子もなさなければ戦史にも残らぬ、そのような人生に意味はあるのかと思っていた。しかし意味を見出さずともはやての名では死ねぬ。ただ、絶望であった」
「……」
「主さえいればよかった。儂の意味は、これだったのだと天啓が下り、やがて主を守りきれずに、里へ戻った」

 まるでそれは、身を焦がす恋愛のような。
 家でなく、主に。たった一人の主に忠誠を誓い、主が死すれば里へ戻る。散舞の里の継続だけを考えているのかと思っていた。違う。里長のそれは、その息子ですら代わりにならぬほどの、主への忠誠。その抜け殻が、ここにあるのだ。

「……はやての名は後進に譲り、里長となり、しかし死ねぬ。主が遺した言葉が、耳にこびりつき夢に見る」

 それがどういう言葉なのかは、想像に留め、聞こうとは思わなかった。里長の宝であろうから。

「わらわもいつか里を出るのなら、そのような主に出会えるのでございましょうか」
「そうであると良いな。もしそうでなくとも、輪廻の果てに、いずれ会える」
「りんね……?」

 仏門の、言葉だ。驚いた。仏門の話などこの里で聞いたことなどなかったから。

「儂はこの里で、主が転生してくるのを待っている」
「……」
「今は、それだけの人生だ」

 再び髷を結うように髪を結われる。
 里長は昔、主の髷を結っていたのだろうか。そんなことをぼんやりと考える。
 輪廻か。その中で、わらわも会えるのだろうか。主に大切にされた命だからこそ自害できないほど、大切な主に。はやて様にもそのような主がいたのか、後で聞いてみよう。
 結局、わらわが里長から解放されたのはとっぷりと日が暮れた後だった。

「ずっと座っておるのも難儀であろう」
「……本日は不意打ちを免じてくださいませ」

 はやて様の声にぐっと伸びをすると、背の骨がばきばきと音を立てた。

「はやて様の主はどのような人だったのですか?」
「覚えておらぬな」
「え?」
「え、とは何だ。散舞は風。主などに忠誠はない」

 里長の話と随分違う。

「我の忠誠は里にあり。里の存続が全てだ」
「……」
「ゆえに主が死すれば消え、里に戻る」

 それは、元々、里長に話を聞くまで理解していた内容であった。それこそが散舞の里の精神であると。
 では里長が話したことは? 言うてはならぬとは言われなかったが、目をそらした。

「そうでございましたな。聞いたわらわが悪うございました。夕餉でも……」
「いつかが、一足先にはやてになる。此度の任務が終わった暁には一緒に過ごしてやれ」
「……」

 はやてに。
 修羅の道へと進むのか。
 いつかはやてになるから、いつか。そんな名をもらうほどの里の子。

「まぁ、此度の任務は長くなりそうであるから、白雪が一度任務をつとめても戻らぬこともあるやもしれぬが」

 いつかの主は誰になるのであろうか。
 いつかも、いずれは里に戻ってくるのであろうか。
 わらわが羨ましいと髪を梳く、細い腕。その腕で人を殺すのであろうか。

 赤い、矢尻。ついにこの時が来たかと放り投げる。
 人を殺す任務。応じなくともよい。わらわははやてになりたいわけではないのだから。
 しかし、はやて様はそれを許さない。

「早う行かぬか」
「わらわは人を殺したくない」
「今更何を言うておる。伊輔のとどめはお前が刺したのであろう? 仇も」
「……そうでは、ございますが」

 嘘だ。この嘘を見破られたら、殺されるかもしれない。任務を受けておきながら放棄したのだ。ただの任務ではない。里を裏切った男を討つことを、放棄した。
 はやて様に表情を見られぬように、慌てて立ち上がる。

「……ま、参ります」

 里長に呼ばれていたのは、わらわ一人だったようだ。詫びを入れようと手をついたところ、里長はすぐに用件を切り出した。

「よう来た。此度の任は、いつかの補佐だ」
「……いつかは、既に」
「左様。追いかけてもらうこととなる」

 場所は、ひどく遠い城だった。東の。おそらく、風魔が守る城。
 そこのお殿様ではなく、家臣の一人の暗殺を頼まれたそうだ。

「……、わらわはどのように?」
「いつかに指示を仰げ」
「……承知した」

 さて、どうしたものか。
 東、か。
 あの風魔は、そこらへんにいるのだろうか。あの時投げて寄こされた塗り薬は、今も度々使っている。良い代物だ。
 とりとめのないことを考えながらいつかを追う支度をしに部屋を出ようとすると、低い声で引き留められた。振り返ったときに見た里長の顔は、これまでにないほど険しく、苦々しいものだった。

「いつかが躊躇うようならば、その場で始末してほしい」

 真の任務はこれなのか。
 いつかは為せぬかもしれぬと、思っているのか。

「……わ、わらわは……補佐、に……ございまする。いつかの無事を祈ってくださいませ」

 やっとのことで答えると、口の中が渇いていた。
 わらわの頭の片隅にも、いつかを手にかけねばならない可能性がちらついていた。部屋に戻るとひどい顔をしていたようで、珍しくはやて様が動揺した声で名を呼んだ。

「どうした」
「いつかの補佐にございます。いつかが為せぬときは、わらわが……、と」
「……そうか。いつかの補佐。……そうか。そうならぬことを願うばかりだ。飯を食え」
「いつかを手にかけるなど、できませぬ」
「できるできないではない。やるのだ」
「……」
「でなければ、死ぬ」
「……」

 わらわはきっとできない。
 決してきれいな手ではない。しかし東條の手を借り、その首に当てたクナイを引いた夜のことを未だに夢に見て、その度に狂いそうになる。
 わらわはまだ人間だ。

「……冷めてしまいますな。いただきます」
「そうだ、食え」

 塩を揉みこんで干した鹿肉をかじる。いつかはそれを食べておいしいと笑った。わらわはそうは思わなかったが、いつかが元気そうで安心した。
 今は鎌倉を目前にした山の中。焚き火で暖を取り野宿となる。

「白雪が来るとは思わなかったよ」
「手がすいているのがわらわだけだったようだ」
「……白雪にうちを始末することなんてできるかなぁ」
「いつか……」

 いつかはわらわが来た本当の目的を知っているのか。考えてみれば当たり前か。それが里の習わしなのだ。
 いつかの顔を見れずにいると、いつかはふふっと笑った。

「ずいぶん早かったね。鎌倉につく前に追いつかれるとは思わなかった」
「富士の山の麓を迂回したのだ。わらわは樹海で迷いそうであったし」
「里の周りの山なんかより、ずっと深くてきれいだったよ」

 きれいなものをきれいと言う、きれいな心を持っている。それなのに、はやてになりたいというのか。
 いつかは懐からクナイを取り出した。よく砥がれたそれは焚き火を映しだしてだいだい色に色づいている。

「……それにしても、白雪だとは思わなかった」

 ぎゅうっと握りしめて、わらわの顔めがけてその腕を振りかぶる。とっさに上体を反らしたが頬がぴりりと痛んでいる。頬を拭うとわずかに血が滲んでいた。

「何をするのだ!」
「うちの任務はね、お侍さんだけじゃない。裏切り者の処分」
「……!」
「うちの補佐に来た人間が、裏切り者って聞いてる」

 知られている。いや、知られないはずがなかったのだ。背を向けていた兼久に看破されていたのだから。

「言い訳でもあるの? 聞いてあげる。白雪は……油断してても始末できる」
「……伊輔殿は、裏切り者ではなかった。はやてのまま自決できぬから、殺されるよう仕向けたのだ」
「そうなの。それなら仕方ない……って、なるか! それでも裏切り者に変わりないでしょう!」

 いつかが大声を上げるのを初めて見た。その動きの軽快さも、今はわらわにとって脅威としかならない。
 またも寸でのところで避けると、いつかは首を傾げた。心なしか微笑んでいる。

「避けれるね。このままうちは白雪を攻撃し続ける。……けど、任務を完遂すれば、不問にする。風魔に入ってるらしいから、白雪には難しいかもしれないけどね」
「そ、んな」
「嫌なら死ね」

 いつかが詰め寄ってくるので、下ろしていた荷に飛びついて逃げだした。

「風魔……」

 わらわはどうやら、小田原に行かねばならぬらしい。どこか、大きな街に行かねば。少し遠回りになるがやはり鎌倉か。街中の方が身をひそめられる。
 早足で山を下りると、暗くなった鎌倉は既に静まり返っていた。灯りのついている一画に近寄ると、女がずらりと並んでいた。いつかはこのような場所には来るまい。
 屋根から忍び込み、ようやく息をついた。
 さて、どうしたものか。風魔にいるとわざわざ教えてくれるくらいだ。約束は守ってくれるのだろう。
 あの時は十郎と兼久がいたからどうにかなったが、はやての身のこなしの上に風魔の投擲……それこそ、伊輔殿を倒すことができたのならばわらわは即戦力となれるであろう。簡単にいうと、不可能。

「まさかお館様のようにわらわに命をくれるわけもなし……」

 お館様。もう、母の顔も思い出せぬのに、お館様の笑顔を思い出す。
 背中に背負った刀をすらりと抜き出す。これを置いていけば、少しは身軽に動けるか。しかし、見つかって持って行かれでもしたら……。

「裏切り者、か」

 このままどこか遠くへ逃げたら、追いかけてくるのはいつか一人では済まないだろう。抜け忍となって生き延びるのは想像を絶する厳しさだという。
 となると、どうせなら数厘の可能性に賭けて伊輔殿と対峙する他ない。それまでに風魔勢にやられなければの話だ。いつかの協力は得られないであろうし。どうやらわらわの余命は短そうだ。
 耳につく嬌声を聞きながら、しばしの間目を閉じた。

「……『ここならいつかは来ないだろう』って思った? 甘いよ、白雪」

 右。視認する間もなく、左に飛びのく。

「瓦に足跡のあるところを探したら数刻でこの有様。やる気ある?」
「……次からは全ての屋根に足跡を付けよう」

 どうする。普通に逃げたのではいつかの方が早い。抜いたままであった刀をぎゅっと握り直し突き出すと、狭い屋根裏ではいつかも逃げられないようだった。刀はいつかの足をわずかに抉り、いつかがギリギリと歯を食いしばる。

「時間をくれ。その傷ならば重傷にはなるまい」
「ほんっと、甘い……」

 いつかが片膝をついたのを見て、行けという意味だと受け取り外に躍り出る。
 夜明けはまだだが、小田原へ行かねばならない。小田原のはやて様は、果たしてわらわが任務を放棄したことを知っているだろうか。
 夜が明ける前に踏み分けられ大きな道になっている東海道を走り抜けていくと、城下町が朝日できらきらときらめいて見えた。里長にされるように髪を一つに縛り上げ、武家の子どものように腰に刀を差して歩く。

「おや、武家の子か」
「小田原城に呼ばれておりまする。御免」

 声をかけられて、びしりと背を伸ばして腰を折ると、相手はくつくつと笑った。今までもこうしてやり過ごしてきたが、どこかおかしかっただろうか。一瞥をくれると、派手な着物を着流した遊び人がいた。紐を通した狐の面を首にかけている。

「……狐面の、着流し……。貴様、あの時の……」

 あの時は狐面を付けていて顔は見えなかったが、考えてみれば確かに聞き覚えのある声だった。

「ふーん……?」

 わらわのことをじろじろと眺めまわして、ぐるりと肩を抱く。

「だんごでも食おう」
「や、やめろ。放せ」
「後ろの殺気を隠せてない子、里の子ではないのか?」
「いつかが……!? 放してくれ。風魔と馴れ合っているなどと知れたら、まことに殺される。急いでいるのだ」
「やっぱ追われてるのか。里の子はいない。さ、だんごでも食おう」

 ぐいぐいと高級そうなだんご屋の座敷に押し込まれる。傍から見るときちんと武士に見えているのか、それとも傾奇者が傾奇者に絡んでいるように見えているのか、何事かをひそひそとささやかれている。

「で、散舞の武士の子が何の用かな」
「……あの時、伊輔殿を見逃したのが上に知られた。任務を完遂すれば、不問にすると。……裏切り者ではなかったと言うて聞く相手ではなかった」
「そんなこと話していいのか?」
「き、貴様が聞くから!!」
「随分と俺を買ってるじゃないか」

 無理矢理連れてきておいて忌々しい。だが……。

「き、傷薬も、本物であったし……」
「あぁ、あれか。あれをやったのは恰好を付け過ぎたな」

 やがて運ばれてきただんごを風魔がばくつくのを見て、前日の干し肉以来何も食べていなかったのを思い出して腹がぐうぐうと鳴った。

「食わぬのか? 毒など入っていないが」
「……貴様のだけやもしれぬだろう」
「いい心がけだ」

 風魔がわらわの腕を引き、身構える間もなく口を付けられる。既に二度三度ほど噛まれたねっとりとしただんごが押し込まれた。そうして口を離したので吐こうとすれば、後ろから抱きすくめられて鼻と口を同時にふさがれた。

「飲まぬと苦しいぞ?」

 あまりの嫌悪に涙がにじむ。意地でも飲むものかと首を振ると、袴を緩められ、襟を緩めて胸を掴まれた。背中に虫でも這っているかのようにぞくりと粟立つ。
 思わず口の中にあるだんごを飲み込んで風魔の指を噛むと、ぼろぼろに着崩れてはいたがなんとか解放された。

「ふむ、俺の好みじゃないが一応胸はあるし、顔もどう見ても女だし、姫として入った方がいいと思う。あの男は奥の守備を……って、何故泣いているのだ」
「そ、んな確認ならば! 直接触る必要がどこにあるのだ!!」
「泣くな」
「誰のせいだと……っ、貴様、いつか殺してやる!」
「ほう? 今は無理だと、力量くらいはわきまえているらしい」

 殺されると思った時だってこんなに涙が出てくることはなかった。
 というか、泣くなど、東條屋敷以来だ。こんなことで。そもそも、どう見ても女顔というのなら不必要な確認であろう。
 悔しい。侮られている。しかし、確かにわらわの力量では傷一つ付けられずに返り討ちにあうことになる。

「阿呆……」
「悪かった。食え食え」
「夫婦でもないのに、く、口を吸うなど……」
「悪かったって。でも毒は入ってないだろう? それとも俺が責任取ろうか? 風魔に下る?」
「これ以上阿呆なことを抜かすならば叩き斬ってくれる……」

 顔をごしごしこすりながらだんごを口に放る。さっさとそうすればよかった。

「しかし武家のお嬢ちゃんは色仕掛けもできないでどうするんだ? うちの女衆はそれを逆手にとってそりゃもうえげつない……」
「わらわには必要ないもん」
「もんってお前」

 口を吸われた感触がまだ残っている。思い出しては涙はじわりと出てくる。
 風魔はどこ吹く風で涼しげに茶を啜っている。余裕そうな顔がまた好かない。

「……して、わらわに協力するというのか」
「あやつはいい働きをするが、一度裏切った者をそう長年は使えぬからな」
「貴様さっきわらわに風魔に下るかなどと抜かしたではないか」
「あれ? 本気にした?」
「……下衆が」

 こんな奴に体をべたべたと触られたのは本当に屈辱でしかない。だんごで腹を満たしたところで立ち上がると、風魔はわらわを見上げ首を傾げた。

「どこへ行く」
「わらわとて潜入くらいは簡単にできる」
「大した自信だな。まぁ待て。風流な舞台を整えてやるから、体力を温存させるがよい。布団もあるし」
「……寝顔を見せろと言うのか!」
「追われてる奴が何言ってんだ。この風魔小太郎が見張りをしてやると言ってるんだから大人しく寝とけよ」
「それこそわらわの体が危のうてかなわぬわ」
「お前に欲情するほど女に飢えておらぬわ……」

 もう本当に叩き斬りたくなってきたところで、はたと気付いた。
 今、風魔小太郎と言わなかったか?
 風魔の小太郎は、散舞のはやてのような何人もが名乗る名前ではなく、風魔の首領が名乗る名だ。

「き、貴様が、風魔小太郎!? そのような者に口を吸われたなど……はやて様に殺される……!」
「どのはやて様だ? 散舞のはやてはややこしいなぁ」

 そも、なぜ風魔が小田原にいることを知っていたのかというと、はやて様が昔話で風魔小太郎と対峙した時のことを話すからだ。その憎悪は並大抵のものではない……まぁ、この調子ならわからなくもないが。

「ほら、さっき泣き疲れたであろう。寝なさい。それとも睡眠薬を口移ししてやろうか」
「ひっ」

 渋々横になると、前日からの疲れと、風魔の言うように泣き疲れたのとですぐに寝入ってしまった。
 起きると、だんご屋ではなかった。たくさんの女達が人形にするようにわらわを着飾っていた。
 頭がずきずきと痛む。何もないと言いつつ、既に何か盛られていたようだ。本当に侮れない奴だ。しかしそれ以上に腑抜けている自分に腹が立つ。

「小太郎様、起きましてよ」
「おぉ、よし。風流な舞台を整えたゆえ、お館様も鑑賞なさる」
「貴様、何を」
「お前が一方的にやられるのでは面白くないので、風魔秘伝の薬を飲ませた」
「薬……?」
「一晩で体が強靭になる秘薬。危険だからほとんど使わないが」
「そんなもの飲ますな!」

 振りかぶった腕が、自分でも驚くほど速く、風魔が掴んだ拳が重い音を立てた。自分でも驚いていると、風魔はにやりと笑った。

「……効いているようだな」
「……」
「さて、こっちの屋根だ」

 奇妙なことに、北条までもが見守る中、屋根に連れていかれた。

「東の伊輔、西の……えーっと、名前は何だったか」
「……白雪だ」
「それでは、東の伊輔、西の白雪でやりあってもらう。決着がつかぬ場合は、お館様が勝敗を決する」

 伊輔殿は驚きを隠そうともせずに、悲しげに笑った。優しい人であるから、風魔の下衆な考えを悲しんでいるのかもしれない。
 豪華な着物の袖を紐で縛り、クナイを握りこむ。伊輔殿は散舞のクナイを懐かしそうに眺め、同じように風魔の投擲針を構えた。

「では、始め!」

 伊輔殿が投げた針を避けながらぐっと前に出る。体が軽すぎて転びそうになるくらいだ。振りかぶったクナイを避けられた先に蹴りを入れると、伊輔殿は大層驚いていた。

「まさか泥をつけられるとは。随分と腕を上げているな」
「うぅ……伊輔殿を見逃したせいで、わらわの初めてが!」

 また振りかぶったクナイを、今度はクナイで受け止められた。散舞の。
 その身軽さも、やはり衰えていない。

「初めてって、何だよ」
「口を吸われたのでございます! わらわの口を、あの風魔が!」
「そりゃ一大事だね、っと」

 そう。それもこれも、伊輔殿を見逃したせいなのだ。……まぁ、本当はわらわの自業自得だがそれは直視しない。
 離れると投擲が来るし、近付いたらクナイで防がれ、反撃もある。膠着状態だ。
 それにしてもなんと動きにくい。打掛はとっくに地に落ちているが、襦袢だけになっていいだろうか。それこそはしたないか。

「覚悟!」

 再度クナイを振りかぶると、同じようにクナイが来た。それに対し、袖を巻いた左腕で受け止める。背に負った刀を抜くと、そのまま切り伏せた――はずだった。
 伊輔殿はわずかなところで後ろに飛びのき、反撃に出た。
 刀で受けると、片腕を掴まれた。わらわの腕を掴んでいない方の手でクナイをまっすぐ突き立てようとする。腕でかばうと、振袖がすぱりと切れた。わずかに腕に到達している。しかし構わず腕を掴み返してぐるりとねじると、伊輔殿はクナイを落とした。クナイは屋根を転がり落ちていく。
 伊輔殿がわらわの腕をひねらなかったのは、おそらく刀が自分に刺さる可能性もあったからだ。ギリギリと自らが持っている刀がこちらの首筋に寄ってくる。

「……く、ぅ……!」

 腕を掴み、掴まれたまま後ろに倒れこむ。刀はわらわの上に倒れ込んだ伊輔殿を斬りつけた。肩からわき腹にかけて着物が破れ、血が滲んでいる。
 離れて体制を整えると、ズンと針が刺さっている。……痛くない。もしや、風魔の秘薬とは痛みも軽減されるのか。しかし白い足袋に血が染みている。先程の左腕も、きちんと見てみれば深めに切れているようだった。
 怪我していない分こちらが有利かとも思ったが、やはりじりじりとやられている。

「本当に、腕を上げた」
「……もう良いであろう。わらわの手柄となってくれ」
「そのような義理はない」
「見世物となって死ぬ義理はあるのか。何もあの屑の下でなくとも道は」
「道はなかった。俺には、この道以外には、何もなかった」

 やはり殺しておいた方が、皆のためになったのだろうか。

『お前が一番残酷だ』

 あの言葉は、確かにそうだったのかもしれない。
 伊輔殿はぐっと針を握り直し、感情の読み取れない目でわらわを見た。
 どうすべきか。とりあえず刀の血を払い、鞘に戻す。クナイはわらわが1本、伊輔殿が1本、中間に1本落ちている。

「……欲が出た。生きたいのだ。俺はここで、お前を手柄とする」
「ほらね、裏切り者だ」

 その声が聞こえた瞬間、がくりと、伊輔殿が膝をつく。いつの間に、と思ったが、それよりも呼びなれた名が口からこぼれた。

「……いつか」

 伊輔殿を見下ろすいつかの目は、見たこともないほど冷たかった。いつかは、伊輔殿に一番なついていたのだったか。可愛さ余って憎さ百倍というが、最も裏切られたという思いが強かったのかもしれない。

「白雪。早くとどめを刺さないと、完遂にはならないよ」
「……う、ん」
「うちが手伝ったこと、里には内緒にしてあげるから」
「そういう、風流でないことは、嫌いだ」

 遠くで声がしたかと思えば、伊輔殿とは比べ物にならないような速さで投擲針が飛んでくる。しかしそこはさすがのいつかの身のこなしで軽々と避けている。

「白雪。早く」
「あいわかった」

 伊輔殿は既に、いつかによる傷により虫の息であった。放っておいても先は短いであろうが、かようなことをいつかが許すとは思えなかった。

「白雪……、俺を殺すか」
「もう、後には引けぬ。このままではいつか諸共この城の塵となってしまう。せめていつかへの信頼を果たす」

 目を閉じてクナイを伊輔殿に振り下ろす。ぐちゅりと嫌な音がしたが、どのようになったかは、どうしても見れなかった。

「逃げるぞ、いつか!」

 振袖の袖を切り落とし、裾を破る。重たい飾り帯を投げ捨てると、いつかは頷いた。
 今までどこに隠れていたのか、風魔が塀の上にずらりと出てくる。さすが大所帯。
 いつかに指示を仰ごうとみると、いつのまに移動したのかいつかは風魔小太郎を足蹴にしていた。

「うちの速さならあんたのお館様まで届く。ここには抜け忍を追ってきたまで。見逃せ」
「……良い度胸だ」
「そ。逃がしましたより、見逃してやりましたって言わせてあげる。いいでしょう、そこのお館様も」
「良かろう。……気を取られていたとはいえ、ここまでの侵入を許したのも確か。これはこちらの失態だ」

 硬直している城主を隠すように風魔が立ちふさがる。それでもいつかの方が速いと、認めたのか。これがはやてなのか。風のような。

「よし、白雪。帰ろう」

 これからおそらく鎌倉へ行って、それから、本来の任務がある。
 いつかが瞬く間に戻ってきて、わらわの腕を引いた。

「すぐに逃げよう。うちらが見えなくなったら追っ手を出すはず」
「しかし、今約束をして……」
「あいつらは武士などではないから」

 いつかに言われるまま、開かれた道をひたすら走る。
 そのまま立ち止まることなく鎌倉へ戻ると、そこでようやくいつかは息を吐いた。

「一対一に持ち込むなんて、うまく取引したんだね」
「……刀があるから武士として忍び込むつもりであったのだが、あの風魔小太郎に見つかって……。口を吸われるわ、胸を揉まれるわ、最悪な出来事であった」
「色仕掛けで取引したんだ? あんなに嫌がってたけど、やるときはやるんだね」
「え? ち、違……」
「まぁ、とにかく白雪がきちんと任務を完遂したから、裏切り者を見逃したことについては不問にする。鎌倉のはやて様に泊めてもらおう」

 勘違いを正せぬまま鎌倉の情報源となっているはやて様の元へ向かった。

「おや、聞いていたより随分遅かったじゃないか。まぁ、怪我してる」

 鎌倉のはやて様はどこにでもいそうな中年の女性だった。わらわといつかの手当をして、温かい飯を出してくれた。それから風呂屋へ行き、並んで布団に入る。
 散舞の里に拾われてから初めて、同い年くらいの子どもの普通を体感したような気がした。
 ぐっすり眠っていたのを叩き起こされたのは、真夜中。いつかは寝ぼけ眼のわらわの頬を二、三度叩き、行くよと言った。

「お侍さんは闇討ちだから」
「う、うむ」

 温かい布団に包まれていたのに血と汗に塗れなければならない現実は、少なからずわらわの胸を痛めた。里長が言ったのは、こういうことなのだろうか。
 いつかの背を追うと、先日潜んだ場所とは違って灯りも漏れぬ場所であった。暗い。これならば、殺したものを見ずに済む。

「うちが足を怪我してるのを差し引いても、白雪の身のこなし、うちに追いついてるね」
「……左様か」

 風魔の秘薬は、どのくらいで効果が切れるのであろうか。この身が軽く感じるほど、薬が切れたら重くなるのだろうか。
 いつかと共になんなく屋敷に侵入したが、老いた武士が一人横たわっているだけのようだった。

「手を下さなくても死にそう」
「こら、そのようなことを言うでない」
「そうだね。任務は任務だし」

 ざくり。いつかは何の感情もなくクナイを振り下ろした。
 違う。わらわは、失礼なことを言うなという意味で言ったのだ。しかしいつかには、伝わらない。

「任務完了。帰って寝よう」

 これが残酷だと言うのなら、こう育てたことが残酷だ。
 そう思った。

「おめでとう、はやて様」
「白雪もだよ。一緒に頑張ろう、はやて様」

 そういういつかの言葉通り、里に戻ったわらわははやてを名乗ることを許された。そうして、いつかと共にそれぞれ京へと向かい今後唯一の主の元で正月を迎えることとなる。