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豊臣家のはやて

 山城国、聚楽第(じゅらくだい)。きらびやかな建物は低い城のようであった。低いなりに屋根は見晴らしがよく、わらわは気に入っている。まだわらわ達が里に居る頃には、後のいつかの主をもてなしたとされる屋敷だ。
 縁側に腰掛けていると、ばたばたと足音が近付いてきた。

「なんやはやて。こんなところにおったんか」

 探したんやで、とわらわの主――豊臣秀吉公は人好きのする笑みを浮かべた。
 豊臣。東條の――お館様とは反対の立場だった。わらわはどこまでも流されていくのだな、と思う。

「泰平の世はもうすぐやで」
「そう聞き及んでおりまする」

 天守閣は大層寒く、雪が降りそうだった。屋敷中がそわそわしている。何せ、北条を討てば天下泰平が為る。
 その天下泰平のための北条征伐において厄介なのが風魔衆らしく、百姓の出である我が主は馴染みの忍びなどおらぬゆえ、散舞の里を訪ねたということだった。
 しかしこの人たらしとも呼ばれる男、齢五十三にもなろうというのに女好きで、度々わらわの尻を掴んでは変な笑みを浮かべる。さすがに風魔にやられた時のように泣きはせなんだが、とかく不愉快な面もあるのだった。

「……み、三成殿に呼ばれておりましたゆえ」

 庭に飛び出ると、秀吉公はあっとかえっとか言っていたが、やがて冷たい塀の屋根に逃げることに成功した。そうして、広い屋敷の一角を埋め尽くす書物の部屋に足を踏み入れる。
 この部屋は無論三成殿の部屋ではないが、北条征伐のことを聞きに堺より来てすぐに本の虫となっている。

「三成殿」
「なんだ、はやてか」

 若き忠臣はわらわに興味もなさそうで、何か城の見取り図のようなものを熱心に見ていた。それは先日わらわが主に頼まれて忍城がどのようなものか調べてきたものだ。
 書物が積み上げられている部屋は暖かく、その中で机に向かう三成殿は何かの絵のようだった。

「忍城は三成殿が行くのか」
「あぁ。初めて指揮を任された。この俺が行くのならば大丈夫だ」
「……そ、そうでございますか」
「で、何だ」

 呼んでいた巻物を置いて、自分で茶を注いで飲んでいる。頼めばいくらでも持って来てくれるだろうに。

「特に用はない。関白殿から逃げてきたのだ」
「なぜ」
「わらわの尻を触るから」

 三成殿がぶっと茶を噴き出す。

「あのお方も見境がない……」
「このようなことでは困るのだ。わらわははやて。忍びであって関白殿の慰み者ではない」
「その、わらわと言うのをやめてはどうだ。武家の姫でもあるまいし」
「……それもそうでございますな」

 そうか。里では、武家出身の余所者という立ち位置であったが、ここではただの忍びなのだ。
 わらわではなく、我や儂、拙者、某もいいかもしれない。

「はやてははやて……か」

 はやてを名乗る前に、里長に言われた言葉。
 女ではない、もちろん、男という意味ではない。はやてははやて、道具である。

「その件については考えておく。鍛錬に付き合っていただきたい」
「嫌だ。武人に頼んでくれ」
「……そうでございますなぁ」

 武将という人達は力が強すぎるのだが……。
 それに、女が生意気だと言ってくる。三成殿はそれがないからいい。

「我ははやて。ふふっ、気恥ずかしいな」
「うるさい。そろそろ出て行け」
「……というか、ここは別に三成殿の部屋ではないのでは」
「いいんだ」

 三成殿がわらわに背を向けて手元に視線を落とす。

「……それでは。太平の世が明ける前に、ご武運を」
「俺の戦術に間違いはない」

 その自信はどこから来るのやら。
 肩を竦めて見せると今度こそ三成殿に追い払われた。

「はやて。探した」
「……加藤殿? 豊臣公がお呼びで?」
「いや、俺が個人的に探していただけだ」

 珍しいこともあるものだ。その手にはきらりとつややかに光る小さなかんざしのようなものが握られている。打ちこまれた黄金の……象嵌?
 わらわに贈る物だろうかと考えるほど好かれている覚えもない。おそらく堺の母と慕う豊臣公の御方様――北政所様が見つからないのであろう。

「北政所様なら、先程……」
「母上ではない、そなたに会わせたいものがおって」

 すっと加藤殿の後ろから見覚えのある男が現れた。
 かつての宿敵、十郎だ。最初から最後まで好きではなかったが、そんな奴でも久しぶりに会うとなると懐かしく、自然笑顔がこぼれた。

「久しいな! 肥後に行ったのか」
「はやて同士、積もる話もあるであろう。しばし一人でよい」
「主殿、俺は……」

 加藤殿がすたすたと歩いていくのについて行こうとする十郎を引き留める。

「加藤殿は御母堂様に会いに行くのだ。一人で行きたいのであろう」
「主の母君は、尾張にいると」
「育ての母とでも言うかな。北政所様はとかくお人が好いので皆に慕われているから」

 十郎は納得したようなしていないような顔でわらわについてきた。適当な縁側に座ると、豪華絢爛な庭に臨む。主はゆっくりとこの庭を見たことはあるのだろうか。

「加藤殿は忍びなどいらぬであろうがなぁ」
「まこと、勇猛な武人だ」
「わらわに……あっ」
「どうした」
「わらわというのを止めようと思っているのだ。我と儂であったらどちらが良いと思う?」
「はぁ?」

 十郎は呆れたような顔でわらわを見た。こいつ大丈夫かなどと思っているような顔である。
 そもそもわらわが武家言葉のままなのは、里のはやて様にそのままでいるように言われたからだ。おそらく潜入のしやすさや、敵を油断させるためだったのであろう。しかしこの武士の世界ではそれは逆効果で、ただ女々しく、はやての名を貶めるだけではないか。
 先程の三成殿との話を踏まえ説明すると、十郎は確かにそうかもなと言って頷いた。

「それなら、里のはやて様の話し方を真似すればいい」
「あれは、いかつ過ぎないか」
「いかついとはなんだ。聞き慣れてるだろうし、格好いいだろう」

 里のはやて様の話し方か……。
 わらわでなく我。やはりいかついような気が……。

「……まぁ、少しずつ取り入れていくか」
「いつかに会うことはあるか?」
「時々主から様子を見に行くように言われる。朝廷は戦には巻き込まれぬから暇そうだな。兼久はどうなのだ?」
「兼久も俺と同じくらいにはやてになったが、どこに行ったかは知らない。まぁ、お前がふらふらしてるから散舞が豊臣に付いたのは自明のこととなった。召し抱えられたとしても豊臣方のどこかだろう」
「どこかの街でのんびり団子でも食ってそうだが」

 里の麓の町には、里にいたはやて様が駐屯しているらしい。兼久はどこかの街の偵察を行うはやてになって悠々自適に暮らしていそうな気もする。

「兼久といえば……伊賀衆も味方だそうだな?」
「伊賀衆……あぁ、徳川殿の忍びであろう? 噂には聞くが、我が主の元へ来るときに連れてくるわけもなし。見たことはないな。というか、何故兼久と言えばなのだ」
「あれ、お前が任務でいないときだったかな。あいつ、道に迷ったとかで伊賀衆の里に突っ込んだことあるんだよ」
「……どのような方向音痴なのだそれは……。いつかとわらわが風魔に、兼久が伊賀衆に……、貴様は戸隠にでも行ったか?」
「いや、甲賀だ」
「……散舞の里が孤立し、襲撃を受ける理由がよくわかった」
「迷い込んで命からがら逃げてるだけなんだけどな。まぁ、伊賀衆には気を付けとけよ。当代の服部半蔵正成は六尺もある大男。鬼半蔵と名高い奴だ。会ったら槍で突かれるし変な忍術を使ってくるし、今一番勢力があるし……、何より、あの狸の手先だし」
「とかく気を付けることに越したことはないということだな。承知した」

 そろそろ加藤殿が戻ってくる頃かと腰を上げると、やってきたのは加藤殿ではなく我が主であった。

「のう、はやて。そっちは清正のはやてやろ?」
「そうでございますが」
「はやて同士で試合したらどっちが強いんや?」
「それは、主のはやてであるわらわにございましょう」

 十郎の方が強くても主の手前十郎はわざと負けるに違いない。

「せやな。そうやないとあかんで。けど、やってみらんとわからんこともある」
「……すなわち、この者と試合をせよと?」
「せや。風魔小太郎っちゅうんは、強いはやてあてがわんとあかん。清正のはやてが強いなら、交換させてもらうで」

 交換、か。はやては道具であるから、適切な表現なのかもしれぬ。
 顔色を変えぬように口を引き結び、恭しく頭を垂れる。

「先の言葉、相違ないことを示してご覧入れましょう。しかしお互い泰平の世を目前とした最後の戦を控えておる身。怪我をしている場合ではございませぬ」
「そうやな。武器やのうて墨のついた筆でも持ってもらおか」
「筆、にございますか」

 いつも十郎とは背負った刀で距離を取って打ち負かしてきたから……負ける気がしてきた。
 豊臣公の鶴の一声でわらわ達は白装束に着替えさせられ、墨を持たされた。

「……これは我が主に一本取られたかもしれぬな」
「は?」
「墨だぞ。羽子板ではないが、直接墨を付けあうのを見たいだけだろう。……うぅ、寒い」
「お前、勝てよ?」
「わかっている」

 主が縁側で眺める庭に、十郎と二人並んで頭を垂れる。そうして向かい合う。十郎のことは、以前ほど大きいとは思わなかった。
 豊臣公の合図で互いに距離を取る。筆は一本しかなく、無策に投げるわけにもいかない。
 さてどうしたものか。足はおそらく、わらわの方が速い。しかし腕力はどうであろうか。素早く近寄れても素早く腕を振られれば墨が付く。
 膠着状態が続き、やがて痺れを切らした十郎が数歩踏み出した。同時に、わらわも前へ出た。
 庭にある岩。あれに墨を付けても叱られそうであるが、それによじ登る。岩の上に立つと、十郎は岩の下に回り込んでいた。上から筆を投げつける。

「ぶっ」

 どうやら墨が口に入ったらしい。
 試合の真似事とはいえ、十郎が手を抜いたことを豊臣公が気付かなければ良いが……。

「いやー、おもろかった。決着は一瞬やな」
「はやては短期決戦にございますれば」

 やがて顔の墨を落とした十郎を引きつれ、加藤殿が帰ることとなった。嵐が去ったかのような静けさにふうっと息を吐く。
 ふらりと聚楽第を出ると、すぐ近くに黄色い梅の咲く庭がある。
 聚楽第の傍に屋敷を構えられるのだから余程の御方の屋敷であろうが、そこの使用人であろうじいさんはこっそりわらわを中に招き入れ、庭を眺めるわらわに茶を出してくれた。それから度々訪ねるようになりしばらくになる。変な好々爺であるが気持ちのいいじいさんだ。

「じいさん、はやてが参り申した」
「おぉ、はやてちゃん。今日は寒かろう。上がると良い」
「黄色い梅が見事」
「あれは蝋梅という」

 じいさんが茶を点てるのを正座して待つと、その間小さな鳥が蝋梅をついばんで行った。

「相変わらず美しき庭――」

 そうしてじいさんの方を見ると、床の間に一輪だけ花を付けた蝋梅が生けてある。それもまた美しい。

「一輪だけというのもまたいい。じいさんのところに来ると、美しいものを美しいと思えるわらわはまだ人間なのだなぁと思う」
「何を。人間じゃないか」
「……はやては道具にございますれば」
「わしが丹精込めて育てた蝋梅を美しいと言ってくれる道具か。珍しいものだ」

 もうわらわはかたき討ちのつばきでも、散舞の里の白雪でもない。豊臣公の剣、豊臣公の暗器、はやてだ。

「わらわは人殺しの道具で……このような人生に意味はありましょうかと思い申したこともある。……しかし、この人生でなければ、きっとじいさんとは会えなかったのでございましょう」
「そう。その上、今日別れたら次に会える保障などどこにもない。それこそが、一期一会」

 出された茶を思い出したようにすすると、じいさんは微笑んだ。

「温かくて美味しい」
「ようござった」
「じいさんのもてなしは、天下一品でございますな。噂に聞く千利休殿はわらわのような不作法者には厳しいと聞くし、きっと茶会よりもじいさんの茶の方がわらわには美味い」

 偉そうに言うと、じいさんはまた笑った。
 数日後、聚楽第にて豊臣公とほぼ対等に話しているじいさん――千利休殿を見て度肝を抜かれることとなる。

「貴殿が、千利休殿、に、ございまするか」
「左様。不作法者には厳しい千利休じゃ」

 ニッと風格にそぐわぬ笑い方をする利休殿を見て、冷や汗がだらだらと出てくる。考えて見れば、使用人が主がいない間に人を招き茶を出すわけがない。

「なんやはやて面識あったんか」
「それが……わ、わらわは、とんだ失態を。ご、ご容赦、くださいませ」
「そうじゃな。容赦の条件を出そう」

 頭を垂れたままのわらわの頭を、ぽんと大きな手が包んだ。

「またじいさんに会いに来て茶を飲んでくれ」
「……御意」

 頭を垂れたまま去っていく足音を聞く。その音が聞こえなくなってようやく、ゆるく息を吐いた。
 顔ぐらい見知っておけばよかった。うつけだ。
 こうしてわらわは、任務以外での切腹の危機を量産しながら聚楽第で過ごしているのであった。