帝国歴311年9月下旬
「おはようございますー」
「あら、おはようジェイドくん」
それが聞こえたのはきゅっとネクタイを締めた時だった。
今日の予定は大佐会議。それから、……あぁ、シモンの代わりにグラッスくんの指導もあるのか。
「おはよう、グラッスくん」
「おはようございます!」
「うちで敬礼なんてしないでよ」
「あら、かっこいいわ、グラッスくん」
「ありがとうございます!」
「もう、やめてよ暑苦しいなぁ……」
朝食を食べつつ、姉がにこにこと笑っている。姉はいつも笑っているけど、こんなに楽しそうにしているのは久しぶりに見た。
「グラッスくんは」
「ジェイドでいいです」
「ジェイドくんは、彼女いる?」
「いません」
「あ……じゃなきゃ上官の家で朝ご飯なんて食べないわね。彼女ができたらいつでも連れて来てね、アリスと一緒に悪い女じゃないか審査するわ!」
「よろしくお願いします」
グラッスくんが笑って答える。
そんなことをした日にはグラッスくんはフラれることだろう。
「大佐も連れておいでって言ってましたね、昨日。やっぱり似てますね」
「そう? あんまり言われないけど」
「雰囲気なんですかねぇ? 見た目は似てないですけど、言動が似てますよ」
「ふふっ、アリスは仕事中どんな感じ?」
「かっこいいですよ。時々可愛い」
「ふーん」
姉がニヤニヤとこちらを見るのに気付かないふりをして俯いた。耳まで熱くなって、いたたまれなくなってご飯を無言で食べる。
「……ごちそうさま」
「え、もう行くんですか? 大佐」
「グラッスくんはゆっくりしときなよ」
「そんなわけには……!」
慌ててサンドウィッチを口に詰め込むグラッスくんを見て、浮かしかけた腰を下ろす。
「……わかったから、ゆっくり食べなさい」
「はい」
今度は頬にソースをつけている。取ってやるとグラッスくんは恥ずかしそうに笑った。
しばらくして、グラッスくんの準備も整ったので家を出る。
「エヴァさん、本当に綺麗ですね。人気っていうのもわかります」
「だろう?」
「自分は大佐の方が可愛いと思いますけどね」
「な、何を……!」
「いやー、ほんと……あ! コルッカ少佐! おはようございます!」
ビシッとグラッスくんが敬礼するとシモンがこちらに気付いた。シモンが私に敬礼し、私が返礼すると続けてグラッスくんに返礼する。律儀だなぁ。私はこういうとき一度で済ませていた気がする。
「グラッスは寮じゃなかったのか」
「一人暮らしです」
「うちの近くなんだってさ」
「……あまり大佐にご迷惑をかけるなよ」
「はい!」
「返事だけはいいな……」
シモンが苦笑するので、つられて笑ってしまう。
基地に入り、執務室へ着いてすぐにロッカーに入れっぱなしの上着と腕章、それに制帽を持って会議へ向かう。
「おはようございます」
入るなり陸将閣下の姿を見付けて敬礼をする。と、ほぼ同じタイミングで返礼がくるのだから恐ろしい。
陸軍で陸将閣下よりも長く在籍する者はいない。前線に立ち続けていた、奇跡のような人だ。
「ウィルソン大佐だな。第二に入った上級大尉はどうだ?」
「ジェイド・グラッスですか。優秀ですね」
……士官学校を卒業できたのだから、たぶん。射撃は下手くそだけど。
「アルダナ出身だろう。他の上級大尉に目されていたアルダナ出身者は全てレジスタンスへ入ったようだが」
スパイの可能性があるということか。
「密偵には敏感でね」
「……本人は、アルダナにいい思い出はないと言っていました」
「アルダナ戦のことなら、いい思い出ではないだろうな」
「いえ、生まれがアルダナというだけだと。不審な動きは見せていません。今はその言葉を信じるしかないように思います。……唯一気になる点といえば、独身寮に入らずに一人暮らしをしているようです。そちらに関しては随時注意を払っておきます」
「頼む」
「はい」
やはり、アルダナの人間は危険分子扱いなのか。想像以上にグラッスくんに注意を払っていた方がよさそうだ。
陸将閣下が最奥の席に座った後でのんびりとやってきたのは、私が最年少記録を塗り替えるまで最年少での大佐着任を果たしたことで有名な第四部隊のランカスター大佐だった。
式典以外ではどの大佐も適当に着崩しているが、さすがに私も陸将閣下が来ることがわかっていたので、規定通りに着ている。しかしランカスター大佐はロングコートをテールコートに変え、制帽は腰のベルトに引っ掛けて完全に改造している。この制服の改造も、ランカスター大佐が有名な理由の一つだ。軍では珍しい腰まである長髪や、美人であること、軍を揺るがすような大きな事件を解決したこととかいろいろな理由がある。有名すぎるほど有名なのだ。あと別人かと思うような笑顔で軍の求人ポスターのモデルもしている。これは詐欺だと有名だ。
「あら、アタシが最後だったのね」
それでも、予定時間の5分前だった。
「……揃ったようだな」
陸将閣下が第七部隊のコーツ大佐を見やると、コーツ大佐が口を開いた。コーツ大佐が陸将閣下の次に長い。救護部隊は滅多に負傷することもないだろうけれど、第七部隊の出世コースはほとんど前線のような僻地勤務が主だ。ロゼッタはラウロと離れるのが嫌でずっとこちらにいるから今頃少佐になったのだろうとは、本人が言っていたことだ。
「では会議を始める。まずは陸将閣下から何かご連絡は」
「軍の予算はこの先大幅に減る。特に第二と第三。訓練は代替品で我慢してもらおう。また、各部隊節約を徹底しろ」
この前の大戦、そんなにヤバかったのか。私も撃ちまくったしなぁ。
「……それから、軍に不満を持つ者が増えているらしい。少しでも不審な動きをする者がいたら注意しておくように。処分も許可しよう。重要なことは以上」
「何か陸将閣下に質問のあるものは?」
「ありません」
何人かが口々にありませんと言う。
「ないならば私は執務に戻る。後はよろしく頼む」
全員で立ち上がって陸将に敬礼をする。陸将は返礼をした後にきびきびとした動きで出て行った。
「さて……大佐になって間もない者もいると思うけど、何かあったら私やマクスウェル大佐、ランカスター大佐に聞いてね。今日は陸将閣下がいらっしゃいましたが新しい大佐が任命された時と重要な急用があるときだけです。普段は第五の大佐が会議を進めます。いいわね? アディントン大佐」
「はい」
「私達の会議は陸軍の全てを左右します。何かあれば小さなことでも報告すること。……マクスウェル大佐、他に新米大佐に言うことは?」
「ない」
「ランカスター大佐は?」
「ありません」
「はい、それじゃあ今日はここまで。陸将がおっしゃったこと、よろしくね」
慌ただしく会議が終わった。息を吐きながらメモをまとめる。最年少の私が最後に出て電気を消したり戸締まりをしたりするのが筋だろう。
執務室へ戻ると、みんな出払っているようだった。ホワイトボードに午後3時から少佐以上会議と書きこみ、腕章を外して上着をロッカーにかける。
「……そっか、電話の件は経費の問題にしよう」
そうと決まれば悩むことはない。携帯電話は緊急時以外使ってはいけないことになっているし、執務室の固定電話よりも正確に誰がいくら使ったかわかる。そうそう無駄に電話をかけることもないだろう。
節約か。訓練時の代替品とは、やはりペイント弾か何かだろう。掃除の方が大変になる。水性だったらいいけど……。他に減らせる経費はあるだろうか。交通費が必要な人間もそれほどいないし、節約に関しては割と優秀な部隊ではないだろうか。……っていうのは、身内贔屓かな。
経費を計算しているとパラパラと人が戻って来た。
「ウィルソン大佐」
「何?」
「エアコン、切れてるんすけど」
「切った。上から節約しろって言われて、とりあえず試しに」
「節約っすか。暑くないっすか?」
「軍人が暑さ寒さに耐えられなくてどうする。訓練の一環だと思え。水分とミネラルの補給はしっかりしてね」
パソコンに試算を打ち出しながら言うと部下は暑い暑いと言いながら水をがぶ飲みしていた。
まったく、戦場にエアコンは付いていないというのに。
「そういえば大佐、エヴァさんは来ないんですか?」
二人のうちの一人、ワーゲルンくんがそわそわしながら言う。ドーソンくんは引き続き水をがぶ飲みしている。暑いならシャツを脱いでも気にしないのに。
「エヴァが来るような用事、あったっけ」
「いや、お弁当持ってきたとか、いろいろあるじゃないですか。エヴァさんに会えたら頑張れます!」
「戦場にはエアコンもエヴァもない。耐えろ。そして君達からエヴァを守るために基地には近付かないように言っておく」
「守るって! 俺は野獣か何かですか!!」
「野獣も一発で仕留める軍人だろうが」
「……何を騒いでいる」
シモンがドアの前にいる二人を邪魔そうに見上げている。
「コルッカさんは既婚者だからこの気持ちはわかりませんよ!」
「?」
「“少佐”」
「はっ!」
「午後3時から会議をする。遅れないように。また、他の少佐、中佐にも伝えておくこと」
「はっ!」
「それじゃあ、私は訓練してからエヴァの手料理を食べに帰る」
「大佐の鬼! 悪魔!」
「よーし、君にエヴァからの差し入れはなしだ。シモン、楽しみにしててね」
「はい」
大佐ぁ、と情けない声が聞こえてくるのを笑って無視して、射撃場へ向かった。
日中は確かに暑い。執務室のエアコンを切っただけであんなに暑いとは思わなかったな。もう秋も深まる頃だというのに。残暑が厳しい。
昼ご飯を食べ終えて執務室へ向かっている途中、グラッスくんを見かけた。十字路を真っ直ぐに進んで行く。第二部隊の執務室は、右だ。
「……?」
射撃場ならば、少し遠回りになるが真っ直ぐ行っても不思議ではないかもしれない。売店でコーヒーを買うついでに様子を見てみようか。
グラッスくんはきょろきょろしながら真っ直ぐに進んでいく。このまま真っ直ぐ突き当たれば、諜報担当である第四部隊の執務室だ。用があるわけがない。
「……ランカスター大佐のファンで入ってくる奴も多いし」
だけど、それなら私が連れて行ってやる。用もなく近付けば、無用な疑いすら避けられない場所だ。
「グラッスくん」
「あ! 大佐!!」
ビシッと正確な敬礼を寄越してくるのに返礼して歩み寄る。と、彼は泣きそうな顔でこちらへやってきた。
「大佐ぁ、ここどこですか?」
「迷子もいい加減にしろよ」
本当に迷っただけなのだろうか。わからない。疑ってかかるときりがない。
「……すいません」
「この先は第四部隊だ。不用意に近付いたら射殺されても文句は言えない」
「確かに……死んだら文句は言えませんけど」
「そういう意味じゃない。……そうだ、GPSでも付けるか?」
「迷子になったら迎えに?」
「……迷子にならないようにしてくれ」
そして不審な動きをしないように。
グラッスくんを連れて執務室へ戻り、そのまま対極にある第五部隊の執務室へ向かう。
「アリス・ウィルソン第二部隊大佐です」
「どうぞ」
アディントン大佐の不機嫌な声が中へ招き入れてくれた。
なぜ不機嫌なのかと様子を見ると、私の服装を上から下まで見ている。服装か。アディントン大佐みたいにきっちり着ていたら暑くて倒れてしまうだろう。
「……規定は知っているかい?」
「えぇ。TPOを守ればいいでしょう?」
「要領のいいことで。……それで?」
「あぁ、そうでした。あの、上級大尉に支給されている携帯電話のGPSを記録させてほしいんですが」
「……?」
「極度の方向音痴で」
「そんな理由で?」
「……“迷って”第四部隊まで」
紅茶を飲んでいたアディントン大佐がブッと噴き出した。
「下手な嘘だ」
「本当かどうかわからないので。……一応、怪しい動きがあるまでは私に管理させてください。何かあればすぐに報告します」
「いいだろう」
簡単に手続きを済ませて、今度こそ執務室へ戻りグラッスくんの携帯電話を再起動させた。
そうこうしているうちに3時になり、執務室の隣にある会議室に向かうと既に全員揃っていた。部屋に入ると一斉に立ち上がり、綺麗に揃った敬礼。私の部下はなんて優秀なんだろうと嬉しく思いながら返礼をした。
「それでは会議を始める。今後軍の予算は大幅に減るとの見通しだ。本日より節約に励めとのお達しだ。具体的には、訓練時の武器を代替品で行う。あとは電気代・水道代だな。少しでも銃弾を確保したければエアコンと基地外への電話は控えるように。何か質問は?」
「武器の代替品とは?」
「陸将閣下は代替品としかおっしゃらなかったのでこれは私の想像だが……おそらくペイント弾にでもなるんじゃないかと思う」
「実弾よりはずっと安いので現実的ではありますね」
確かに現実的だ。元々これじゃないのが金銭的にはおかしい。
しかし何故そうでなかったのか。それを考えると……。
「問題は、ペイント弾の重さだ。実弾とは重さが違うから違和感が生じる。これは特にスナイパーライフルには致命的だ」
「特に、というか……スナイパーだけだと思います」
「サブマシンガンだって重さで残弾数を確認するし……」
「机上の空論ですね」
ブリューゲル中佐がぴしゃりと言う。シモンの同期で、彼と同じく一兵士からの出世頭だ。同じ少佐だった時もあまりよく思われていなかったらしいことはよくわかっていた。どうせ私が士官学校卒なことも大佐になったことも気に入らないのだろう。
「……ブリューゲル、大佐に向かってなんてことを」
「ブリューゲル中佐だ、コルッカ。大佐はスナイパーライフルの腕は一流なんでしょうけどね、ライフルのように数えながら撃つわけじゃないんですよ」
「だから重さで判断すると言ってるんだけど」
「それが机上の空論だと……」
「わかったわかった。後でやって見せてあげるから、今は黙ってください。重さに関しては、中佐が問題ないというならそれを信じましょう。みんな、何か問題に感じたら教えて。次に……軍への反意が見られる者がいた場合は注意しといてくれ。場合によっては処分する」
その場にいた全員の顔が強張った。
「……ジェイド・グラッス上級大尉だが」
「彼こそ反意がありそうだ。確かアルダナ出身では?」
「陸将閣下にも言われた。……彼の携帯電話のGPSを記録させてもらうことにした」
「アリス、それは……」
「本人は迷子防止だと思ってる……が、迷って第四の執務室まで行くのは難しいと思うんだよね」
「……大佐は……あの方向音痴が演技だと考えておいでですか」
静かに聞いていたシモンが無表情の顔をあげる。
「その可能性もあるって話。部下が大切なら方向音痴を直してあげるといい。何度も言うが迷子対策だ。以上、会議終わり。射撃場に行きましょう、ブリューゲル中佐。机上の空論を実演してあげよう」
ニッと笑うとブリューゲルさんは顔を引きつらせた。ドーソンくんがやれやれと首を振る。
どうせなら私が大佐なのだと認めさせてやる。
「サブで重さによる残弾確認ね」
「……はい」
適当に撃って途中でやめる。
「16。数えてみて」
「…………16」
「偶然だと思うならもう一度しましょうか?」
「いいえ。もう一度も……敬語も結構」
「だから大佐はできるって言ったじゃないすかー」
ドーソンくんがサブマシンガンを取り上げて撃ってみせる。空撃ちをせずに弾倉を外して見せた。
ドーソンくんは彼が入隊してきた時に射撃場を案内して、更には一緒に訓練をして、できるようになれと教えた覚えがある。できるようになったってわけだ。
最初は彼も机上の空論だなんだ、得物はスナイパーライフルのくせにとかグチグチ言っていたが。
「……大佐、失礼なことを言ってすみませんでした」
「別にそこは気にしてないよ。机上の空論じゃなかっただろ?」
「……はい」
「それじゃ、仕事に戻ろうか」
執務室に戻ってからはグラッスくんの指導、といっても通常より少し厳しい訓練。それから、へろへろになって家に戻る。
姉が笑って出迎えてくれた。この姉がいる場所が、私の守りたいところだ。