Mymed:origin

帝国歴311年10月下旬

「エヴァ、旅行に行くとしたらどこに行きたい?」
「そうねぇ……。神の逆木を見に行きたいわ」
「マド神国か」

 マド神国は自治区のひとつで独立を主張しているため自治区の名称に「国」を入れている。信仰心に篤い場所ではあるが独立の主張の関係で争いが絶えないし、そもそも王国が狙っている場所だ。
 神の逆木……ねぇ。神が突き刺したという逆さに立っているだけの大木だ。私としては、あまり好き好んで行こうとは思えない。
 私は無神論者だ。だって神がいたらこんな戦争ばかりの世界にはならないはずだ。
 テレビでは戦争の可能性を否定する検証番組ばかりやっている。軍人としてわかる範囲では、根拠の大半が嘘だ。それは逆説的に、戦争が近いことを示している。

「エヴァ……」
「何?」
「私なんか心配しないで、結婚してもいいんだからね」
「いい人がいないもの」
「大佐とか紹介するよ。陸将とかはちょっと年上すぎると思うけど……。どんな人がいいの?」
「そうねぇ、アリスみたいな人よ」

 私みたいな?

「まさか女がいいの?」
「違うわ。わかってるくせに」
「もちろん冗談だけどさ、私にいいところある?」
「いっぱいあるわ」

 姉はそれ以上言おうとしなかった。こうなると、姉は頑固だ。

「明日も早いんだから、お風呂に入ってきたらどう?」
「うん」

 神の逆木は諦めてもらうにしても、この時期に休暇は取れるだろうか。それも問題だ。

「……まとまった有休は無理だろうな……」

 溜め息も吐きたくなる。軍全体がピリピリしていて、どうにも気が滅入る。休戦になったばかりだというのに。
 グラッスくんは、真っすぐ家に帰れただろうか。GPSをつけて約1ヵ月半。“迷って”第四の執務室まで行くのはあの1回きり。だが、第四と同じくらい行きづらい場所にある第五の執務室まで行っている。どちらも軍事機密が満載だ。中佐以下の人間はそれだけで疑われる。もし陸将閣下にグラッスくんはアウトだと言われたら私は彼を閣下に引き渡すしかない。
 部下を疑うなんて嫌だな。戦争が始まればこんなこと考えなくていいのに。

「馬鹿だな、戦争が始まればなんて」

 寝てしまおう。きっと疲れてるんだ。
 いつの間に寝たのだろう、ギシッと床が鳴る音に目が覚めた。枕の下の銃を構えて安全装置を外す。

「大佐、ジェイド・グラッスです」
「……グラッスくんか」
「エヴァさんに起こしてきてほしいと頼まれまして」
「そういうのは断ってくれ」

 グラッスくんは照れたように頭を掻いて俯いた。

「し、下心も、ありますよ」
「撃つぞ」
「やめてください」

 ベッドからおりてもグラッスくんはそこに立っている。

「……グラッスくん、あまり怪しい動きを取らないでくれ」
「そうですね、大佐に撃たれちゃいます」

 グラッスくんはあっけらかんと笑ってドアを閉めた。
 仕事中も、と口の中で小さく付け足したけれどたぶん聞こえていないだろう。
 溜め息を吐いてシャワーを浴びようと下着の類を引っ張り出す。グラッスくんもいるんだ、いつものようにバスタオル一枚でうろうろするわけにはいかない。

「エヴァ、グラッスくんに起こしてって頼むのやめてくれないか」
「ふふっ、どんな反応するのかと思ったらね、つい」
「つい、じゃないよ」
「撃たれかけました」

 シャワーを浴びて、もろもろの支度を済ませる。

「ジェイドくん、忘れ物があるって一旦帰っちゃったわ」
「ふーん」
「どう? ジェイドくんに起こされるのも悪くない?」
「エヴァ以外の足音が近付いてきたら寝起きでも銃を構えるからね。危うく部下を殺すとこだった」

 姉が肩を竦める。言い方は悪いが本当のことだ。

「昨日の話じゃないけど、アリスこそ私に構わず恋人を作ってもいいんだから」
「私は無理だよ」
「無理じゃないわ、ジェイドくんはどうなの?」
「あの子は若すぎるよ。それに部下は絶対無理」
「そうかしら」

 えらく推してくる。姉も気に入ったのだろう。悪い子じゃない。
 グラッスくんか。うん、どう考えても恋愛感情は沸かない。ドーソンくんなら考えてもいいかなぁ。けれど、グラッスくんの一言一言に心乱されるのも、事実だ。あれは気になっているのか。

「わかんないなー」

 そもそも、私は結婚する気も恋人を作る気もない。姉もそうなのだろうか。

「それじゃ、仕事行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
「あ、大佐! おはようございます!」
「おはよう」

 グラッスくんが敬礼するのに返礼すると、駆け寄ってきた。相変わらず犬みたいだ。

「さっきはすいません」
「もういいよ。そろそろ慣れた?」
「はい! でも、まだ執務室から射撃場に行けないんです……」
「何で?」
「基地の中って同じような建物ばかりですし……」
「それで基地までは迷わず行けるってわけか」

 さて、どうしたものか。

「……というわけで、グラッスくんの方向音痴を直せたら、明日休んでいいよ」

 数名が立ち上がる。ある者は感覚論、ある者は理論詰め、ある者は目印の選び方。

「みんなそんなに休みたいのか……」
「大佐」

 シモンが小さく手招くので、執務室の外に出る。

「どうした?」
「……エヴァンジェリンさんに相談したいのですが」
「何?」
「……妻が、とても体調が悪そうで。どうしたらいいのか……」
「あ……そろそろつわりの時期か。そうだね、エヴァに伝えとくよ。帰りにうちに寄って」
「ありがとうございます」

 大変なんだなぁ。奥さんの体弱いし、心配だ。でも、ちゃんと大事にしてるようで、ちょっと安心した。
 執務室では、依然としてグラッスくんに道案内をしていた。

「おっ、なんすかなんすか!」

 人だかりに、ベクレルさんがデスクの上に荷物を置きながら近づいてくる。ボサボサの髪だ。まるで、さっき起きたとでも言うような。

「グラッスの方向音痴直したら明日休んでいいってよ」
「まじかよ! よし、グラッス、俺が……!!」
「ベクレルさん、もしかして今来た?」
「……さー、仕事しよーぜ、ドーソン」
「ちょっ、ベクレルさん、俺休みたいんすけど!」

 ドーソンくんを引きずってどこかに消えたベクレルさんを見送って、グラッスくんに向き直る。

「どう? 迷わず行けそう?」
「……あは」
「笑ってごまかすな」

 グラッスくんは頭をぽりぽり掻いた。

「……GPS、つけたままでいいの?」
「毎日基地と家を往復するだけですし、やましいことはありませんから」
「……そう」
「本当か? 見てもいい?」
「はい」
「ヴィンセント、グラッスくんがいいと言ってもプライバシーのことだからだめだ」

 うちに毎日寄ってるのがバレる。それは何としても避けなければ。

「アリスは見れるんだろ?」
「私は大佐で、君は中佐だ」
「そうだな。悪い」

 思わずホッと息を吐く。

「それじゃ、明日はみんな来ること。はい、じゃあ自分の仕事をしよう」
「大佐、訓練見てくれませんか」
「ツヴァイクくんの?」
「はい」

 珍しいこともあるものだ。今日は特に何もないし、大丈夫だろう。

「この前指導してもらったじゃないですか、あれから調子よかったんですけど、また最近どうも……」
「うん、わかった」

 射撃場へ向かう途中、ツヴァイクくんは妙に暗い顔でそわそわしていた。

「命中率はどのくらい?」
「……すいません。本当は、訓練に付き合ってほしいわけじゃないんです」
「え? そうなの?」
「こっちです」

 反意。ふと、その言葉が浮かんだ。まさかね。過剰に反応しすぎだ。
 ツヴァイクくんと二人で話すのはいつ以来だろうか。……いつの間にか敬語になってしまったし。同じスナイパーの少佐として隣のデスクにいた頃よりも距離を感じる。
 黙ってついていく途中、ツヴァイクくんがふっと一瞬笑った。

「今日、誕生日なんです」
「今日……? まさか、ダグラス中佐?」
「……中佐が好きだった」

 売店で花束を買って、陸軍の合同墓地に来た。広い草原に墓石が整然と並ぶ様は、異様なものを感じさせる。

「……ずっと来れなかった。ウィルソン……君となら、来れると思ったんだ」

 ツヴァイクくんが冷たい黒を宿したの墓石に触れる。その指がダグラス前中佐の名前をなぞった。

「中佐は、本当に亡くなったんだな」
「……そう……だね」

 そうか、ダグラス中佐を……。
 ツヴァイクくんが小さく肩を震わせる。花束を供えて一歩だけ離れた。
 急に、少佐だった頃のことを思い出す。ツヴァイクくんと一緒に仕事をして、上司であるダグラス前中佐にくっついて回ったこと。一緒にお酒を飲みに連れまわされたこと。そんな他愛もない瞬間を次々と思い出して、目が潤んだ。

「……私も尊敬してた。中佐のどこが好きだったの?」
「昔……君に言ったことを覚えてるか? 君はきっとすぐに僕の上司になるだろうって」
「敬語はやめてくれ、っていう口実かと」
「いや、僕は本気で思ってた。君は優秀すぎるくらい優秀だ。だけど、頭の片隅では君に嫉妬してた。同じスナイパーだとどうしても比べられる。……辞職を考えていたこともある」
「え……?」

 思わずツヴァイクくんの顔を覗き込んだが、彼はただダグラス中佐の墓を見つめるばかりだ。

「……ウィルソンは天才で、僕は凡人だ……、どうあがいても埋められない差に嫌気が差して、逃げようとしてた。でも、そんな時に中佐に、君が一人で訓練しているところを見せてもらったんだよ。そして中佐は、あいつは自分のことを“天才”だとは思ってないが、“天才じゃない”とも思ってない……」

 神はいない。だから、神に愛される天才もいない。私はそう思っている。まぁ、中佐の言うこととはたぶん意味が違うけど。

「お前を評価していないのはそこだ、最初のやる気はとても評価していた。だから、もう少し頑張れって、言ってくださった」
「それで」
「……上司として、何気ない励ましだったのかもしれない。だけど、それで僕の全てが変わった。……そして中佐のことを、好きになった」
「それで……結婚する気がないと?」
「……一応、そこまで気を配ってくださっているようだったので」

 あ、敬語に戻ってる。ツヴァイクくんは照れ臭そうに笑って、制帽を目深にかぶった。

「すいません、女々しい部下で」
「そんなことない。お墓参り、出来てよかった」
「はい」
「……また来よう。今度は、中佐の好きな花を持って。あ、知ってる? 中佐の好きな花」
「えっと、あの……小さい花がいっぱいつく花ですよね」
「うん。カスミ草っていうんだ」

 ――地味だけど、あの花が一番好き。だって、一人一人が寄り集まって立ってる、私達みたいでしょう? いい? ウィルソン、花束全体を見なさい。萎れてる花はないか、飛び出てる花はないか。射撃の腕だけじゃ、上へはいけないのよ。
 ダグラス中佐。きっとこれが、第一歩です。中佐からの、餞別かな。
 ツヴァイクくんにそのまま帰ると伝えて、家に戻ることにした。訓練でもして頭をからっぽにしたかったけれど。

「……ただいま」
「あら、今コルッカさんが帰ったところよ」
「シモン、大丈夫そうだった?」
「大丈夫よ、戸惑ってるだけ。キャロル、ちょっとつわりがひどいみたいね。一昨日、ちょっと助けてって言われたとこだったのよ」
「あ……なんだ、そっか。私にできることある?」
「そうねぇ、遠慮しちゃう子だから……私にさえなかなか頼んでくれなかったもの。コルッカさんの相談にのってあげたらどうかしら」
「そうする」

 私は、自分の理想像に、近付いているのだろうか?