いつか
いつかはやてになるから、いつか。うちが落ち込んだ時に里長が言う、うちの名前の由来。
うちの両親ははやてで、どこからか拾われてきた十郎や兼久とは違って、生まれた時から里にいた。里に来る子はみんな捨てられたり殺されかけたりする貧乏な家の子で、育ちのいい白雪の存在はもの珍しく、どこか近寄りがたい美しさがあった。顔はそうでもないんだけど。
白雪は上品なしゃべり方で、さらさらの髪を伸ばしていて、武家のお姫様のままだった。里長が言うには、白雪は技術がないから、見た目で油断させる必要があるそうだ。
時々、長く伸ばした白雪の髪を、麓の町で買った櫛で梳かせてもらう。
「……羨ましいけど、言っちゃいけないんだ」
「……」
「白雪の髪も、結えるの? かんざし挿してさ」
「この長さがあれば、おそらく結えるであろうな」
「いいなあ」
うちの髪は、クナイで適当に切り落とす。小指ほどの長さの髪がざんばらになっていて、お姫様からは程遠い。
だけど、任務の邪魔だから。
「……人間、身だしなみは必要だ。いつかはきっと、天下人に近い人に仕える、はやての代表となろう。身だしなみも気を付けなければ、散舞の里が侮られるであろう」
「うん、でも」
「一つに結えば、邪魔ではあるまい」
たぶんそれは、白雪の優しさ。理由を付ければ、髪を伸ばしていいと思ったのだろう。
でも駄目なのだ。そういうものなのだ。
「ありがとう、白雪」
「好いた者ができたとき、後悔するぞ」
「そんなもの……。うちらははやてになったら女じゃないんだよ、白雪。はやてははやて、女じゃない」
「しかしいつかの母親は」
「好いて産んだ子なら、抱きもせず死なないよ」
「……」
もう一度白雪に礼を言って外に出る。白雪の髪で遊ばせてもらった後は、いつもひどく落ち込む。好きなのに、手に入らない。ならばもう触れなければいいのに。
「いつか、団子食う!?」
「……兼久。また団子……」
「いや、ははは」
兼久が笑って紙につつまれた大量のみたらし団子から一つを押し付けてくる。
「毎日毎日、飽きないの?」
「飽きた」
「じゃあなんで」
「……飽きた団子食ってでも、話したいんだよ」
兼久は里をぐるりと囲む木の塀を見た。いや、おそらく、その先にある麓の町を見ている。町に、その話したい相手がいるのか。
顔を赤らめ、物思いにふけり、転んで脚を引き摺る怪我をするほど。
「……その相手が、好きなの?」
「やっぱ、いつかも女子なんだな、わかる? 俺どうしたら――」
「里の仲間だ。助けてあげるさ。兼久がはやてになる邪魔になるのなら、うちが代わりに消してあげる」
「……ありがとよ」
兼久は肩をすくめて見せた。
「だけど、好いた相手は殺したくないもんなのさ」
そうなの、だろうか。うちは里長が好きだけど、里長が自分を殺せと命じたならば苦しませずに殺すだろう。兼久が団子を配りに去っていくのを眺めながら、河原に座り込み団子を頬張る。
そのまま夜更けまで座り込んでいると、隣に並ぶ気配があった。
「いつか、眠れないのか?」
「あ……はい」
里長。今はもう、一緒に寝起きしているわけではない。
とすれば、先日、任務への呼び出しに応じなかったことだろう。
「ご免なさい。うち、赤矢尻もらっても行かなかった」
「……伊輔を兄と慕っていたのだから詮無きこと。だが、二度はない」
「…………はい」
里長の優しい声に、泣きそうになった。大好きだった伊輔さんは、もういない。だけど、伊輔さんを殺すのが恐ろしかったんじゃない。何度手合せしても勝てなかった伊輔さんに立ち向かうのは怖かった。
伊輔さんが好きだから手を下しに行けなかったのだとしたら、伊輔さんが裏切っているという情報を伝えはしなかっただろう。しかしその選択肢はなかった。
それなのにみんな、うちが伊輔さんを好きだったから行かなかったと思ってる。つまり、みんなはそういう感情があるということだ。うちにはわからない、その感情が。
「昔話をしよう。墓まで持っていこうと思っていたが、いつかは……同じ道を辿りそうで怖い」
「?」
「主に、名を教えたことがある」
「!!」
息をのんだ。
「名は、捨てねばならぬと」
「……失敗だったよ。主が死に、里にのうのうと戻ってきても本名を呼ぶ声が頭から離れぬ」
はやてになれば、名を捨てねばならない。
はやては散舞の里のためだけに舞い、散るのだから。
「いつかは、きっと名を捨てきれぬだろう」
「……うち……、そんなことない……」
川面が妖しく月光を反射する。ゆらゆら揺れるのを見ていると、里長への返事は、揺らいでしまう。
里長がふっと笑う気配がした。
「悪いことではないのだ」
「……しかし」
「たった一人だけなら……命を賭すことができるほどの主君ならばいい。……そう思い込みたいだけかもしれぬが……」
「…………」
里長が月を見て目を細める。その横顔は、知らない人のように見えた。命を賭けるのは、散舞の存続であるはずなのに。
「うち……はやてになる自信、ない……」
「いつかはやてになるから『いつか』」
「……そうでした、ね。……寝ます」
里長の言うことに間違いなどない。だからきっとうちは、一人だけ……、たった一人だけ、命を賭すことのできる主君を見つけてしまうのだろう。
***
「はやて。どこぞ」
「……ここに」
懐かしい夢を見ていた。壁に寄りかかったまま寝ていたため、立ち上がると骨がばきばきと鳴る。
関ヶ原の合戦の前、白雪が顔面蒼白で里が滅びたことを伝えに来たのも、里の代理戦争でとなった関ヶ原の合戦で生き残った散舞の里のはやてがうちと十郎だけになったのも、随分と前のことだ。
里長が、その前に大往生していたのは、心のどこかでよかったと思う。
「左近衛少将であった猪熊教利を知っておるか」
「…………存じ上げておりまするが。……猪熊がいかがしたのでございまするか」
「京に戻っておるそうじゃ」
苦々しげに主の顔が歪む。
「捕えてたもれ、はやて」
「御心のままに」
なぜ戻ってきたのだろうか。
「……教利」
「いつか……? いつかであるか」
昔里長が言った通り、うちは本名を教えてしまった。しかしそれは、主ではなかった。
当代一の色男。かの在原業平にも劣らぬと謳われる猪熊教利。色魔のような男だった。女官に手を付け、主に追放された愚かな男。
縁側で一人月見酒と洒落込んでいる教利は、今日は女を連れ込んではいなかったようだ。
いつか、いつかとうちの名を呼ぶ声を聞くとどうしても嬉しくなってしまう。その名を呼ぶのは、仮初の家族と親友達だけだった。
「いつか、まろが恋しく……」
教利がうちの着物を引っ張り押し倒す。その頬に触れると、温かい。胸の芯まで、ほっと温かい。
「勅命で、貴様を探せと」
「……もう日の目を見たか。秘密というのは足が速い」
まるで気にしていない素振りで首筋を吸われる。よく帝に逆らってのうのうと生きられるものだ。図太いにも程がある。
「貴様なぞ嫌いだ……」
「死んでほしい?」
「……逃げてほしい。主は、きっと殺す気だ」
帯にかけていた手を止め、教利が目を瞠る。
「公家法では死罪はない」
「それほどの逆鱗に触れたのだ。うちがここで殺してやろうか? 晒されるような辱めを受けることはないだろう」
「……お前は狂っているな」
「愛しているよ、教利」
「やはり狂っている」
教利はくすくすと笑って荷物をまとめ始めた。
クナイは冷たく、うちの熱を奪う。
好いた相手は、殺したくないもんなのさ。
今なら、わかる。握りこんだクナイを振りかぶり、御簾を切り裂く。
「主には見つからなかったと言っておく」
「南へ下る」
着物を正せば、何もなかったかのように教利は穴の開いた御簾の隙間から出て行った。挨拶もなしか。
最後に抱いてほしいと言えば、頼みくらいは聞いてくれたのだろうか。
「……教利」
あの男が、命を賭すことのできるほどの男だったのかは、もうわからない。
教利が言ったように、うちは狂っているのかもしれなかった。
あとがき
いつかがここで猪熊を逃がした罪の罰は本編「別れ」で触れられている通り打ち首。本来、女性に打ち首はありません。
散舞の里でいつかが白雪に口を酸っぱくして言っていた「はやては男でも女でもない、ただの道具である」という言葉が反映されている……という伝わるのかコレ、という設定があります。
私の描写力で伝えきれる気がしなかったのでここで補足しておきます。