池田屋事件
わらわが再び京へ戻ったのは一月してから。あの少女は、わらわに掴みかかり泣き崩れた者と同じとは思えぬほどいきいきと働いていた。家老家のお嬢様と言うからにはサクラのような暮らしをしていただろうに、掃除洗濯、料理に至るまで奮闘している様子であった。
つまり、壬生浪士組で家政婦か何かのように働いていた。
思えば、サクラの予想というだけでまことに家老家の姫君であったのかすら怪しい。
「はやてさん、ですわね。その節は、取り乱してしまい申し訳ございません」
「いや、いい」
「時に、気のせいかとは思うのですが、はやてさんは――」
「あっ、はやてだ! 手合せ願う!」
話の途中だというのに、沖田に引きずられ道場へ向かう。前回同様、木の棒を渡される。
秘術でも使ってやろうか。……しかし、それはやはり、小狡いか。
となると、やはり前回のように正々堂々とぶつかるしかない。――速さで。
沖田はやはり少し先を下げる構えをしている。ならば、上に飛ぶか。距離を詰め、沖田が踏み込む瞬間にわらわも踏み込んで大きく飛ぶ。瞬間、クナイ代わりの棒を首に当てる――が、やはり対応されて逃げ場がない空中で三段突きの餌食となった。胸の次は背中が痛い。
「貴様と手合わせすると痣だらけになる」
「見せてくれるのかい?」
「たわけたことを言うな」
汗をかく間すらない手合わせ。息が切れるわけもない。そうわかっていながら、沖田が空咳をするのを息切れなどと考えた。
縁側に座り込むと、昼のように明るく星がきらめいている。沖田が隣に座るのを視界の端で視認する。
「時に、最近よく聞く新撰組とは何だ?」
「あれ、知らない? 壬生浪士組改め、新撰組。局長も近藤さんに変わったし」
「……そうか」
たった一月ほどの間に、こうも目まぐるしく変わるものか。
芹沢鴨。あの男が容易く局長の座を譲るものか。あれほどの腕前で、簡単に粛清されるものか。
わいわいがやがやと、熱血漢どもが集う場――……などでは、ない。この、泰平の世が続いていた中でも、誰かを手にかけるような者が、確実にいる場。
「さて、と。京の街をぶらぶらさせてもらおう」
「案内いる?」
「いらぬ」
壬生浪士組――新撰組を後にする。と、言いつつ屋根裏へ潜る。わらわは気まぐれに新撰組に手を貸しては、いつまで経っても名前も聞かずに少女を影から見ていた。
サクラに言われたから、という理由はとっくに消えていた。
働き者だ。まるで、働いていないと死ぬとでもいうように、働き者であった。何かできることはないか、何か迷惑をかけていないか。必要とされたい、そこに身を置く理由を作らなければ追い出されてしまうと、自らを追いつめているようであった。
初めて出会うような人間だ。必死で我武者羅で真っ直ぐで、疲れてしまいそう。
危なっかしい。
「……なぜ、あの男についていたのか」
先程答えが出たはず。おそらく、必要とされたのだ。しかしどういう理由で必要とされたのかは定かではない。そしてそれはどうでもいい。
ただ、少女は不安定であるという事実。
しばらく見守る程度でいいはずであろう。
わらわが人の心配をするなど、どうしたことであろうか。あまり他人に興味を持つ方ではないと思ったものだが、存外己にも己のことがわかっていなかったようだ。
少なくともわらわが見ている間は、サクラが心配しているようなことはなかったように思う。
祇園祭の、少し前のことであった。いつまでも屋根裏でごろごろしていたら医家出身の山崎に見破られ、体を動かすようにせっつかれ、山崎に引きずられるように散歩をしていた。
「……あれは……」
炭薪商の……。
こんな夜更けに何を。
山崎をちらりと見ると、山崎も思うところがあったようで、わらわの方を見た。
「調べるか。貴様は尾行。我は……家に忍び込んでくる」
頷きあって炭薪商の桝屋を調べる。家には何もなかった。
対して、山崎が尾行して得た情報は、まさに新撰組が必要とする情報であった。つまり、尊王攘夷派の動きであった。
にわかに、しかし静かに新撰組内は慌ただしくなった。山崎の情報を元に、隊士が奔走する。沖田が声を上げてわらわを呼んだのは、数日が過ぎた夜更けの頃だった。
「はやて! 手伝ってくれ!」
「?」
こうも直接手伝えと言われたのは初めてのことだ。天井裏からそろりとおりると、揃いの青い羽織を着ている隊士が並んでいた。
「池田屋だ。一緒に来てほしい」
「珍しいな」
「鍵を開けてほしいんだ」
「……あぁ、そういうことか」
そこに誰がいるのかは、聞かなかった。どうせ尊王攘夷派の志士。知らぬ名ばかりであろう。
新撰組は沖田を含め四名。その中には、あの正重に似た男もいた。一度正重と呼び掛けて以来、近付くと逃げていく。似た姿で生まれるものでもないのか、何か思い出すきっかけでもないと前世のことなど思い出さぬのか。
そも、輪廻とは。転生とはまことにあるのか。
「どうした?」
「いや、……三十、数えるうちに開ける」
「いいね、それ」
思えば、城というのはとかく入りにくい場所であった。それに比べれば、この池田屋は赤子のようなもの。
忍び込み、鍵を開ける。ただそれだけのことなのに、門を開けた時に近藤はにっと笑った。
駆けこんでいく近藤たちから少し遅れ、沖田がわらわの前で足踏みをする。
「すげぇや、はやて」
沖田は、そういってひどい咳をした。そういえば、ずっと。もう、日常の音に混ざって、いつもの咳の音として不審に思わないほど。
「貴様、風邪では、ないな?」
うずくまる沖田の背をさする。
「なんだろ、緊張、かな」
沖田がぎゅっと拳を握り込み、疲れた笑みを見せる。見えずとも、この化け物の鼻は血の匂いをかぎ分けていた。
咳が続き、いずれ喀血する病。まさか身近なものが結核に侵されるなど考えもしなかった。
立ち上がろうとする沖田を制し、懐からクナイを取り出す。
「土方隊が来るまで、貴様の代わりを果たしてやる。戻れ」
「でも」
「早く!」
そうして池田屋に踏み込んだ時、わらわが目にしたのはひどい有様であった。入り乱れる人の中、すさまじき強さで新撰組が斬り伏せていく。
わらわも沖田に言った手前、逃げ出そうとする志士にクナイを向ける。三人目で、ばちりと目が合った。クナイを振るう手が止まる。相手も構えた刀を無防備に下ろした。
「……つばき?」
「!」
似ていない。正重には、全く似ていないのに。
目が、同じで。
わらわの名を呼んだことを、当人も驚いているようだった。
「正重……っ」
あった。転生は、あった。
「会いたかった……!」
浸っている暇はない。
後ろに、あの男――永倉新八が。
わらわは思わず、正重の後ろに回り込み、永倉が振り下ろした刀を、クナイを十字にして挟み込んだ。正重に似ていると思っていた男は、驚くほど冷えた目でわらわを見下ろす。
「……あんた、尊王攘夷派だったわけですかい」
「こやつは、違う……」
「何が違うんだ! そいつは吉田稔麿だろうが! 俺は元々あんたなんか信用しちゃいなかったんだ!」
永倉が刀を引き、クナイから外す。そうしてわらわが構える間もなく下ろした刀をすりあげて肩口からばっさりとわらわを斬り捨てた。沖田と対峙した時だって、ここまで何もできなかったことはなかった。
その場に倒れ伏すわらわをまたいで、永倉は正重に向かって刀を振り上げる。
「つばき、」
「やめて! 正重、逃げて」
「……また、な」
永倉は非情に正重――吉田稔麿を斬り捨て、次へと向かう。
「正重」
もう返事はない。ずりずりと正重にすり寄る。すでに絶命した正重は、もう何もその瞳に映していない。
「正重……」
もう枯れたと思っていた涙が、とうとうと流れる。やっと、会えたのに。また、次の正重を待つしかないのか。吉田稔麿という青年は、尊王攘夷派の重要人物であったはずだ。わらわに会わなければ、この場から逃げることもできたのか。
傷は治ったはずなのに、しばらく起き上がることができなかった。
「おう、はやて。首尾はどうだ?」
「……土方……。沖田が吐血、藤堂が怪我……、我も、引き上げる。後は任せた」
土方隊により起こされ、のろのろと池田屋を出る。
後に伝え聞いたところによると、池田屋での密談は我らが捕まえた炭薪商の古高を救出するためのもので、国家転覆の企みではなかった可能性もあるという。