放浪の化け物
池田屋事件で負った傷はその場で癒えたが、どうにも体の中が重いような気がしてサクラの檻の中で世話になっていた。ごろごろと寝転がり過ごしていたある日、ふと気付くといつだったかのように着替えさせられていた。
「……御方様……?」
古い、古い記憶がよみがえりあたりを見渡す。豪華絢爛な聚楽第、ではない。
目の前には御方様ではなく、同じように着替えをさせられていたサクラがいた。そうだ。ここは江戸城。もう戦国の世ではない。戦国の世ではないのに、正重は――……。
「……正重……」
吉田稔麿といったか。新撰組が警戒していた、長州の若者。どちらかというと顔かたちが似ていたのは永倉であったが、一目で正重とわかった。
あの場でなければ、きっと。
しかし、吉田稔麿としての人生はどうであったのか。それを奪って良いとは思えぬ。
「サクラ、これはどういうことだ?」
「あらま、どうせならばあと一日寝ぼけておればよいものを」
「今は喪に服しておるのだぞ。正重が――」
「はやて、あれからもう、三年にございます」
「……は?」
「そなたは池田屋から三年、魂が抜けたように寝て過ごしておったのでございます」
サクラの目は真剣で、嘘をついているような様子はない。
「本日は、わらわを飼う徳川慶喜が、今上の天皇に大政を返上いたします」
「……それで、なぜ我らが着飾るのだ」
「大政というものは見えぬでしょう」
「それはそうだ」
「これまで、徳川家ではなく征夷大将軍に受け継がれたもの、それがこの城とわらわにございまする」
船で乗りつけた美しき南蛮人が、権力の象徴となったか。
サクラは、現状帰る術を失っている。
「……貴様、それでいいのか?」
「多少暇を持て余し始めましたが、まぁ、悪くありません」
その表情に陰りが見えたのは、おそらく気のせいではないであろう。いつでも帰れるという余裕が消えうせたようだった。
それからサクラはしばらく黙っていた。江戸城を引き渡す儀式には大将軍も、天皇も来なかった。
「これからどこへ行くのですか?」
「いや、どこにも……。出て行けということか?」
「いいえ、はやては旅好きなのだと思うておりました」
「……もう、やめたのだ。考えてみれば我は元々はやてになりたいとは思っておらんかったのだ。こうしてお姫様として悠々自適も悪くない」
そうだ。何度も口にしていた。はやてになりたいわけではない。
なのに、わらわの道はそれしかなくなっていた。
誰であったか、見逃した後に討った男。何も風魔に下らずとも良いではないかと言った我に、この道しかなかったと嘆いておった。
その通りで、あったのだ。この手は料理を作れず裁縫もできない。人の血を浴びて、生きてきたのだ。
「しかしそうだな、もし旅に出るのなら転生したばかりの正重を見つけ出し、男紫の上にでもしようか」
「……前に申しましたが、吸血鬼の唯一の死因は自殺」
「聞いた」
「……人間以外の、別の縋るものを、見つけるべきにございます」
人間、以外の。
「愛する者が死ぬのは、辛いものにございまする。その度に、そなたは死に近付く」
「……正重を、探すなということか」
「左様。……死なないで、ほしいのです」
「……笑わせるな。我が今もこうして生きるのは、正重との約束があるからだ」
「はやて、お待ちなさい」
サクラの手を振り払い、江戸城改め東京城となった城を出る。瓦の上でしゃがみ込むと、自然と自嘲の笑みが漏れた。
「図星をさされて逃げるとは、精神は餓鬼のままだな」
行くあてはない。
江戸にいるであろう奇術師を探すと、相変わらずの様子であった。やはり見た目は中年ほど。少し白髪が増えたような気もする。以前訪問した際に茶を出した子どもはすっかり大きくなっていた。
「研究は続けているのか」
「これはこれは、驚いた」
驚いたというわりに眉一つ動かさない。
「起きた――いえ、生き返ったようでござるな」
わらわが寝ていた時に来たのであろう。間藤殿は朗らかに笑って茶を差し出した。
「……貴様も長く生きているのならば、好いた者と死に別れたこともあろう。どうやって乗り越えた?」
「……拙者には、同じ境遇のドロテア殿とエバンゼリン殿がいたゆえ……。思えば、サクラアテ様は拙者に同じ魔法使いであるドロテア殿を友として……または、その逆――ドロテア殿に、拙者を友として、孤独を埋めるようにと考え紹介してくださったのやもしれぬ」
「同じ境遇……」
その相手は、新撰組の屋敷でわらわの血となっている。他に人間から吸血鬼になった者はいない。日の本に存在する純血種の吸血鬼はサクラのみ。そのサクラが眷属を増やさぬのだから同じ境遇の者などいないに等しい。
わらわがどのくらいひどい顔をしたのか知らぬが、間藤殿はいつでも話し相手になるとわらわに言った。夜の訪問で長居はできぬ。間藤殿に別れを告げ、再び夜の街へとくりだした。
それからしばらく、夜の間に様々なところへさまよった。時にサクラに顔を見せ、時に間藤殿に顔を見せ、時には人助けの真似事をした。
「……ん?」
とある山へのぼり川を下っていると、木でできた塀に囲まれた集落を見つけた。忽然と現れたそれはいやに懐かしく、周囲をぐるりと回ってみるが入口のような隙間はない。
「……まさか、な」
同じつくりの塀を見たことがあった。わらわが最後に燃やし尽くした、散舞の里を囲う塀。本当に同じならば、材木同士の結び目が一つだけ足をかけることができて、中へ入ることができる。里の中を流れる川が塀から出てくるすぐ横に、たった一つだけ頑丈な結び目が――……。
「……あ、った……」
まさか。散舞の里は、既に。兼久をはじめとしたはやて様はそのほとんどが関ヶ原で討ち死にしたし、いつかは時の天皇の怒りを買い打ち首になった。残った者など……、十郎か?
十郎が、復興していたのか。しかし戦国の世ではない今、忍びの仕事などあるのであろうか。
塀をよじ登り中へ入ってみると、生活の跡がある。やはりどこか懐かしい。
先程川上の方で寝ることができそうな洞窟を見つけたが、どこかの屋根裏を拝借しようか。
「動くな」
低い声がした。同時に、ばたばたと足音がして囲まれる。足音を立てる忍びがあるか。十郎に嫌というほど言われた。
「どうやって入った」
「散舞の里の者が知らぬはずなかろう。我ははやてだ」
「……元はやてってわけか。女の頭領なんて聞いたことはないが。それで何しに来た? 追い出されたか逃げたか……、いずれにしろあんたは里の者じゃないだろ? 宝を奪いに来たのか?」
「宝……?」
いつの間にか灯された松明が、ゆらゆらと赤く相手の顔を照らした。
違和感が、ある。
はやては頭領ではない。里長とは違った。散舞の忍術を極めた者だ。
頭領。宝。そして、忍びの仕事がないこと。主を失った風魔がどうなったか、覚えていないわけではない。同じだ。散舞の里の忍びは、引く手あまたであった戦乱の世が終わり、その刃を己のために振るうようになった。そうして賊へと身を落としたのだろう。
さてどうするべきか。
はやて様を始めとした面々が執着していた里の存続の末路がこれだ。
「それで、何しに来たんだ?」
「……はて、何しに来たんだろうな」
里の名が残っていたことを喜んだ気持ちもある。しかし、里の名を汚すことへの憤りもある。
あんなにも、里の存続を大事にしていたのに。
「確認だが、ここは散舞の里で、今は賊なのだな?」
「その確認に何の意味がある?」
「……違うと、言ってほしかった」
まだ胸を張って義賊だなんだと阿呆なことを言ってくれた方が良かった。チラリと見える中には年端もいかぬ子どももいた。
「今後真っ当に暮らすならば、明日の夜までに出ていくがよい。賊として家業を続けるというのならば、咎めることとなろう」
「おー、怖いな」
ニヤニヤと笑う顔は、恐れなど微塵も感じさせない。わらわが何を言っても強がりにしか聞こえないのであろう。
山を歩いていた時間の方が長く、そろそろ夜が明ける。わらわが背を向けると息をのむ気配があった。それを無視して里の外へ出ると、わあっと声が上がり追っ手を出したようだった。
里に行きつくまでに見つけていた川上の洞窟に入る。印を結び火を焚くと、じめじめとした場所を好む虫けらが逃げて行った。
「……」
はやて様。いつか。十郎、兼久。わらわはどうしたらいい。
散舞の里の存続など、わらわはそれほど熱心であったわけではないのに。かの者たちの気持ちを考えると、どうも胸糞悪い。
……せめて、わらわの手で里を滅ぼす。
こちらの方が、幾分かわらわの気が晴れる。ふっと笑いが漏れた。はやて様やいつかのせいにしてはいけないな。滅ぼす理由など『わらわが気に入らないから』で十分だ。
「……寝よう」
ふと、蒸し暑くて目が覚めた。喉が渇いた。常々血は足りないが、今は血ではなく水が飲みたい。
洞窟のたった一つの出入り口は暗い。もう夜か、と出入り口に近付くと、夜のために暗くなっているのではなかった。塞がれている。どうやらわらわは自分で起こした焚き火で蒸し焼きにされている途中のようだった。よくもここまで気付かずに寝ていられたものだ。
手を見ると、焼けただれた皮が再生を繰り返している。ひりひりとした痛みに気が狂いそうだ。
喉が渇いた。水遁の術は使ったことがないが、火遁で火が出るように水が出るのであろうか。遁走術としての水遁といえば、水の中で息ができるとか、水の上を走ることができるとか……。そもそも、使わな過ぎて結ぶ印がわからぬ。
間藤殿は、魔法は万能の力と言っていたが……。どうにかして出ないものか。
「……あぁもう、水、出でよ!」
やけくそで叫ぶと、ゴゴゴゴと地鳴りがして地震が起こった。尻もちをついた目の前の地面が割れ、ドドドドと何かが勢いよく近付いてくるような音がした。
「!?」
ドンっと地面が揺れ、水柱が噴き出た。それは熱く、かすかに硫黄の匂いがした。水柱は洞窟内を温泉で満たし、やがてそれほど高くなかった山肌に穴を開けた。凄まじい水流でごつごつした岩にぶつかり、肉が抉れた。水の中で悲鳴を上げてしまい、ごぼごぼと肺まで水に満たされる。今度は地面の上に噴き出た水流に乗り、折れた木が腹に突き刺さる。あまりのことに意識が飛んでは戻り、また飛ぶ。
地面に叩きつけられ、何本か骨が嫌な音を立てた。体の中で再生が始まるのを待っている途中、そういえばと天を仰ぐ。運よく既に日は落ちており、久方ぶりに見上げた星空のなんと綺麗なことかとため息が漏れた。
調節もできぬ魔法など適当に使うものではないな。折れた骨が戻り、裂けた四肢が再生すると、湧き出でる温泉を飲んでみた。少し硫黄臭いが、とろりと喉の奥に流れていく。
明日の夜までにと言ったこともあり、一応里を見てみると、塀は粉々に砕け、山の上から斜めに押しつぶされていた。泥をまとった木が里のあった場所に横たわる。どうやら温泉が鉄砲水となり里を襲ってしまったようだった。
「…………まぁ、いいか」
どうせならばしっかりと引導を渡しておきたかったのだが。
なぎ倒した木を巻き込んだ泥は山の中腹で止まり、麓に被害はなさそうで胸をなでおろす。
そうして再び、わらわは正重を探す旅に出るのであった。