Mymed:origin

涙一粒

「……ねぇ、わ、別れたいって、れんらく、きた」

 しんと静まり返ったオフィスで、席の離れた同僚に言ったのだが返事はなかった。さっきまで、彼氏と連絡がつかないと愚痴をこぼしていたばかりだから、独り言だと思ったわけではないだろう。そして、たった二人で残業しているのだから、他の人に言ったとも思わないはずだ。
 振り返ってみると、同僚はいつも通りキーボードを叩きながら茫然とこちらを見ていた。仕事のスピードが落ちないのはさすがだが、キモい。

「え? 何事?」
「最近連絡途絶えたから、別れたいの? って聞いたの。そしたら、別れようって。もう『わかった、さようなら』って返事したんだけど」
「ちょっ、それ、既読無視でいいやつ……」
「え!? そうなの!?」
「あぁ、まぁ、一番ぐさっとくる返事ではあるか……。でも、好きじゃなかったでしょ」
「そう。なんだよねぇ……」

 だから、取り乱しもせず、素直に了承したというのはある。今までの恋愛は、ひどい依存関係にあって涙で別れ話も一苦労、それまで好きだったはずの相手に対して死ねと思わずに別れたことはない。そう思うと、結局好きではなかったということだろうか。

「俺たちがけしかけて付き合わせたもんね。なんかごめんね」
「なんで謝るの。それでも付き合うって決めたのは自分だし。……結局、『嫌いじゃない』が『好き』にはならなかったけど」

 出会ってから5ヶ月。ゆったりとしたペースで食事をし、他愛もない雑談をラインし、そして、今月の満月の日に付き合ってほしいと言われた。いや、正確にはキスをしようとしてきたので、何か言うことがあるんじゃないの? と言って、付き合ってほしいと言わせた。
 とりあえず付き合ってみるという選択肢を提示してきたのは、今オフィスにはいない同僚だった。同様の提案をしてきた飲み友達もいた。それはなんだか世間ではスタンダードな提案だったのだ。私はその付き合い方には否定的ではあったが、その提案に乗る程度には、彼のことを嫌いではなかった。

「『とりあえず付き合ってみる』っていうのさ、やっぱ、嫌だな」
「そうだろうなとは思ってた」
「でも一応、この人なら、長く付き合っていけば好きになれると思ってた」

 付き合うことになった日のことを思い出す。満月の下、ドライブで海岸へ行った。吹きすさぶ海風は寒くて、思わず身を寄せた。そうして、キスをした。
 やっぱり、正直言って今は誰とも付き合うとか考えられない。
 スマホに表示されている文字は、同僚に伝えた別れの言葉よりも惨めなものだった。じゃあ、何でキスしたの? 何で付き合ってほしいって言ったの? 何で、朝を一緒に迎えたの? 耳障りのいい言葉で逃げないでよ。
 けれど私もまた、湧き上がってくる言葉をすべて飲み込んで『わかった』と逃げたのだから、人にとやかく言う資格はない。涙は出ない。まだ好きではなかったから。傷は浅い。

「……これでまた、仕事に打ち込める」
「これから修羅場続きの予定だもんなー」

 同僚は、私が傷付いていないと思っている。
 確かに、彼氏と別れることについては特に傷付いているわけではない。むしろ、泣くほど愛憎深くなれなかったことが悲しいくらいだ。
 だけど、あの満月の下で、私は、砂に埋めて隠していた希望を再び見つけ、拾い上げてしまった。――結婚できるかもしれない、という、希望を。
 たった3週間前の肩書に戻るだけだ。「彼氏ナシ」に。たった2度のデートがなかったことになるだけだ。なのに、夢を見た。見てしまった。

『結婚式、やりたいことがあるんだ』

 そう、言ってたじゃない。
 あぁ。今後、一生、独り者なのかな。
 その考えがよぎったとき、ぎゅうっと心臓が縮こまった気がした。
 好きじゃない。嫌いでもなかった。好きになれると思った。結婚できると思った。出来婚は嫌だ。けど子どもがほしい。誰とも付き合えないなら何で。好きって、自分に言い聞かせたのに。あぁ、でも、だから避妊してくれなかったんだ。彼は決して私のことを大切にしてくれたわけでは。
 いいようにされてばかだね、私。
 一粒だけ涙が出た。悔しいのか、悲しいのか、絶望しているのか、自分でもわからなかった。