君に落とされる・続(GMT-903/海月亭)
恋がしたい。
「またそれ?」
「そう、またこれ」
グラスを回すと、まあるい氷がからんと音を立てた。
恋人という存在がいなくなってもう2年になる。クリスマスやバレンタインなどという世間的には恋人たちの日、みたいな日も喧騒から逃れるように仕事を入れて、耳をふさいですごしていたら、恋というものがどんなものだったか――その始め方も気持ちも――わからなくなってしまった。それで口癖のようになってしまったのが、この“恋がしたい”だ。せめて、好きな人がほしい。
今日はいつものところがいっぱいだったので、二番目によく来る店にきた。暗めの照明の中で静かにジャズが流れるいいお店。バーだから、日本酒や梅酒の品揃えが少ないところが、二番目である理由だ。
また手の中のグラスを回すと、心地のいい音がした。ブラックルシアンが喉の奥をとろりと流れていく。
「言うばかりじゃ、恋って始まらないんだよ」
「……引っ張り落とされてみたい。狭い穴とかで、お互いしか見えないような恋愛、いいと思わない?」
「共依存? やだ」
「道具みたいな扱いよりマシじゃない」
「まーだ引きずってるんだ? 前の奴」
「一応私も、結婚を意識してたりしてなかったり……だったわけよ」
盲目的だった恋が終わって、我に返ってみるとひどいモラルハラスメント男だった。私の意志はそこにはなくて、同僚もよく別れるように忠告してきてて――……愚かな私は、親友でもある同僚の方を切ろうとしてた。結局向こうの浮気が発覚して、あっさり捨てられたんだけど。相手の親にも挨拶はしていたし、浮気が発覚しなければ今頃あの男と夫婦生活を送っていたかもしれないと思うとゾッとする。
「未練はないけどね。すっごいトラウマ。今でも髪の毛掴まれて怒鳴られる夢見る。ほんと最悪」
まぁ、その夢の中ではもう顔も思い出せなくて顔が黒く塗りつぶされていて、本当にただの悪夢なのだけど。
「あー、もう、忘れよ? 酒がまずくなる」
同僚はソルティドッグを頼んで席を立った。2人でくるとこのトイレ待ちがつらい。かといって、3人だといない間に何か楽しい話を聞き逃すんじゃないかとなかなかトイレに行けない。さびしがりなのだ、私は。
私も何か頼もうかな。ほのかに甘くて、炭酸がないものがいいなぁ。ブラックルシアンは好きだけど、いかんせん肝臓が追い付かない。
グラスを冷やすための氷を入れただけのグラスを眺めつつ、つきだしのピスタチオをぼりぼりむさぼっていると、するりと隣の席に座る気配があった。
「一人?」
「いえ、連れが」
「一緒に飲もうよ」
「いえ……」
こういう場面がめったにないからか、とても慌ててしまう。冷静に断ればいいだけなのだろうけど。だって、この人は別に私じゃなくてもいい。
大体私は、年下好きなのだ。利害は一致してないでしょう。
ああ、恋がしたいという割に選り好みする私の傲慢さよ。同僚が言うばかりじゃ、って言ってたのはここらへんだろう。わかってる。でも――……。
「嫌がってるじゃないですか」
どこかで聞いたことのある耳障りのいい声に、一瞬声をかけてきた人が黙り込んだ。私が助けを求めるように見上げると、どこかで見たことのある人だった。
もちろん、本来の連れである同僚じゃない。
誰だっけ? スーツを着ている。もしや取引先じゃないだろうな。
「すみません、困ってたみたいだから」
お礼も言えずにその人を凝視していると、彼は助けてくれたのに申し訳なさそうに笑った。
「あ! わかった。いつもの店員さんだぁ。ありがとうございます!」
急にひらめいて、よく行くお店の店員さんに思わず握手を求める。大きな手を両手で掴んでぶんぶんと振ると、彼はやっぱり困った顔で笑った。
「今日はスーツなんですね?」
「昼はサラリーマンなもので」
私の会社はだめだから考えもしなかったけど、副業OKのところなんだ。あまりじろじろ見るのも悪いかな。
まぁ、確かに……頼られてるみたいだけど、いつもいるわけじゃないし、アルバイトなのかなぁとは思ってた。正直、いい歳してフリーターなのかな、とか。思わず心の中で謝った。ごめんなさい。
「お礼したいので、連絡先を教えてください」
ふと名刺の存在を思い出して、カバンから取り出して裏に携帯の番号を書き足して差し出すと、彼はなんだか複雑そうな顔をして受け取ってくれた。けれどそれは一瞬で、いつもの笑顔で名刺を取り出して、私にくれた。名刺に書かれている名前をなぞると、少しくすぐったい気分だ。
よかった。業界は別だ。取引先だったらどうしようかと思ったけれど……、でも、名前は聞いたことある会社だ。
「可愛い名前ですね」
「なっ!」
なんという殺し文句だろう。名刺を渡してこんなことをいう人、見たことないんですけど! ていうか、嬉しいんですけど!?
ありがとうを言う余裕もないほどにパニックになっていると、視界の端でバーテンダーさんが準備していたグラスを持ち上げた。もう溶けかかっていたグラスの中の氷を捨てるとからんと音がする。
あぁ、私いつも、この……この、目の前の店員さんが差し出してくれる美味しい梅酒の中で艶やかに光る氷の、からんという音が好きで。そしてグラスの下のほうを持つ細長い指も、その奥にある笑顔も――……。
私は年下好きなのに。
にっこりと笑う笑顔に――見慣れて、覚えるほどだった笑顔に――、私はもしかしたら、あっさり引っ張り落とされてしまったのかもしれない。
君に落とされる・続――完
リンクするの忘れてたわけじゃないよ。恥ずかしいから気付いた人だけ気付いてくれればいいと思って。
なんで海月亭のファンページでこれなんだって感じでしょうけどね。ファンページらしい話も一つあるから探してみてください。これよりも意図的に隠してます。
ユキヤさんのファンには殺されるかもしれないが、君に落とされるの女の子のモデルは私なんだ! いいだろう!
で、これは、一昨年のユキヤさんの誕生日に送りつけようとしてやめて、その次の自分の誕生日に送ったものです。
そしたらこの続きが自分の誕生日に来たんだよ。
今までで一番嬉しい誕生日プレゼントだった。
あとがき
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閉鎖されてしまった海月亭さんに捧げるお話でした。