藤丸
藤丸が高校生になったとき、店を手伝い始めた。代わりに、芽衣子をとんと見なくなった。芽衣子には、わらわが老けない理由をきちんと話していない。年々見た目の年齢が離れていくことを気味悪く思っていても仕方のないことであったし、吸血鬼の疑いがあるなどといって通報されないだけマシであった。
時子が十数年前に見込んだ通り、日本へ渡航する吸血鬼は爆発的に増え、吸血鬼の人権を保護するための法整備は姿を変え、吸血鬼である場合にはその登録が義務付けられ、家畜か何かのように政府に管理されている。登録された吸血鬼には、ボランティアによる献血の支給がある代わりに、月に一度人間を襲ったかどうかを尋ねられるうそ発見器にかけられる。うそ発見器を拒否すれば送検され、引っかかればもちろん送検される。そのため、登録義務以前に人を襲ったことのある吸血鬼は登録を避け、結果検挙される事例が後を絶たない。もちろん、わらわもまたその義務からは逃げ続けていた。
「はやてちゃん、お菓子持ってきたよ」
「ありがとう」
時子の推測は割と精度が良いが、一つだけ外れたことがある。吸血鬼退治の依頼は見込んだほどは来なかった。がっぽり稼ぐとは程遠い成果に、食うに困らない程度の生活を送っている状況だ。しかし、食うに困らない程度の依頼が来るのもまた、政府が見込んだ以上に登録がないということの証である。
「……」
「ん? どうした、藤丸」
「あのさ、はやてちゃんって、老けないよね……」
「あぁ」
「それ、食べてみて」
「ん?」
強いにんにくの香りのトーストをかじってみると、藤丸はほっと息をついた。
「母さんが、吸血鬼ってにんにくがダメってテレビで見たって」
「……ガセだ」
「だから、はやてちゃんに食べさせてみて、ダメだったら通報しなさいって」
「ガセだから、にんにくを持てば夜に出歩いても大丈夫などと思うなよ」
わらわがにんにくのトーストを食べ終えると、藤丸が口元についたパンくずを取った。
「親父は魔法使いって言ってたけど、本当は吸血鬼なんだろ?」
「……まぁな。春吉が知った時はもっと取り乱したが」
「安心して。俺は通報とかしないから」
「いや、貴様らが隠匿の罪をかぶるくらいなら」
「行かないで」
藤丸が、わらわが座る椅子の両方の肘掛に手をついた。大きな背もたれにぴたりとくっついても、口をふさぐ藤丸から逃げられなかった。
「俺、はやてちゃんのことがずっと好きだから、ずっとここにいて」
「……」
家族であると、きちんと言わなかったから?
わらわには、正重が。
正重。もう、顔を、きちんと思い出せない。
***
「春吉」
「ん?」
「旅行行ってくる」
「おぉ。今度はどこに」
「……藤丸が結婚でもしたら、知らせてくれ。そうしたら帰ってくる」
「は? えー……」
中年になった春吉はぐしゃりと髪をかきあげた。
「懐いてるとは思ってたけど」
「叔母と思っていた貴様と、近所のお姉さんだと思っている藤丸では、心持ちも違うであろうしな」
「そうだよなぁ。ほらな、最初っから芽衣子にも家族って説明すりゃよかったんだ」
「根に持つ奴め」
春吉は煙草をふかしながら、レジから金をとった。適当に数え、数枚のお札をこちらに差し出した。
「ほれ、旅行代。迷惑料だ」
「馬鹿が。家族からそんなものもらえるか」
「だよな。家族だよな。先に突き放したのはそっちだけど」
「……ったく、根に持つ奴め」
「俺は吸血鬼は怖いけど、はやておばさんが家族を襲うかもなんて考えたことはねぇからな。同居しない方がおばさんものびのび暮らせると思ったからだ」
「それは、お優しいことだ」
差し出された茶を飲む。春吉の淹れる茶は、美味い。
「旅行って何するの」
「……元々、蔵之介を拾うまでにしていたこと。まぁ、人探しだな」
「そんな長生きってことは、相手も吸血鬼?」
「いいや、来世で嫁にしてくれるというから、待っている」
「……会えるといいな」
「そうだな。会えたら……」
その時は、幸せなまま、灰になりたい。
茶を飲みほして、それから時子が暮らす家に向かった。時子は、再び近衛探偵社の看板を掲げている。しかし、以前のことはきれいさっぱり忘れられているのか、同一人物だとは思われていないのか、依頼人以外がドアを開けることはないようだった。
「時子」
「あら、はやてさん。いらっしゃいませ。今から出掛けるところですのよ」
「そうか。いや、特に用はない」
今生の別れでもあるまいし。時子には何も言わないまま、正重探しの旅に出た。
戦争で減ったとはいえ、ベビーブームとも言われた藤丸世代の人間が爆発的に増えた現代では、なんの手がかりもない正重探しは混迷を極めた。
名前も、歳も、性別も、いるのかも、わからない。日々心がすり減っていくような感覚に囚われ、ふと顔を上げたときに見つけた若者に面影を見出し、その腕を掴んだ。
「えっ、何ですか? ナンパ?」
「……すまない、人違いだ」
どのような、者であったか。
「……申し訳ない、人違いだ」
どのような、目であったか。
「……間違えました。すみません」
正重のことを、もう、思い出せない。
もう、いいのではないか。
待たずとも。
「もう、いいか」
わらわが、すり減っていく。
カフェ・きららの朝日が良く当たる入口に座り込んで、目を閉じる。死ぬ場所くらいは、自分で選びたかった。
体が大きく揺れ、地震かと飛び起きようとすると、内臓が浮くような嫌な感覚があって、床に叩きつけられた。しかも、階段の上であったらしくそのまま階下まで頭や腰を打ちつけながら転がり落ちた。痛みに悶絶していると、おろおろと気遣う声が聞こえてきた。
石材の床で盛大に打ち付けた額の方から流れてくる血が目に入ってきて真っ赤で何も見えない。
「だ、大丈夫? 日光が当たるといけないから、俺、運ぼうと」
「……藤丸」
どうやら藤丸が日光を避けるために抱きかかえてくれていたらしい。朝彦はわらわを取り落としはしなかったぞと言いかけて、やめた。
傷が再生したのか、視界を覆っていた血が消えた。
「怪我、治ってる」
「吸血鬼だと言ったであろう」
「じゃあ、なんであんな日が当たるところにいたの?」
「……」
「はやてちゃん!」
「死のうと思った」
「なんで」
「……見つからない。正重が。どのような男であったかも、わからない。思い、出せない。生きてる、意味が、ない」
ぽろり、ぽろりと涙がこぼれる。
藤丸は少し呆けた後、同じく涙をこぼした。
「……意味がないなんて、言わないでよ……」
***
わらわは、正気に戻るまで藤丸に徹底的に監視され、以前よりも長く地下に引きこもることが多くなっていた。布団にくるまってテレビを見ていると、吸血鬼による失血死事件が増加しているというニュースをやっていた。
『政府は、近く罪を犯した吸血鬼に対する罰則を強化する方針です』
「……」
右手の人差し指に残る、火傷の痕。最後に日光に触れた痕。その痕を撫でると、ふとこの手に触れた指を思い出す。
その火傷をじっと見ているとき、春吉がおりてきた。
「おばさん、茶」
「ん」
「旅に出ると言ったかと思ったら引きこもりか。藤丸がめちゃくちゃヘコんでたんだけど、何、あいつできなかったとか?」
「ん? 何の話だ」
「え、藤丸と寝たんじゃないの? あのヘコみ方は女関係とみた」
「お前……」
怒りよりも呆れの方が大きく、深いため息をつくと春吉は違ったぁ? と間延びした声を出した。煙草の煙を吐きながら言ったためだ。
「藤丸は玄孫だぞ。阿呆なことを言うな。まったく、貴様だけは育て方を間違ったわ」
「あーあー、どうせおばさんの中では父さんが一番可愛いんだろ」
「……当たり前だ。世界を恨んだのは朝彦が死んだときくらいのものだ」
戦の世に生まれながら、戦争を憎んだのはその一度きりだ。そういうものだった。朝彦が死ぬまでは。
「それじゃ、なんで死のうとしてたの。そんだけ絶望したのが父さんが死んだときだけっつーなら」
「思い出せない。もう、関ヶ原の少し前から、三百年以上もこの姿だ。一度は見つけた正重も、目の前で殺されて。探しても、探しても、見つからぬ。それだけならば良かった。思い出せないと、気付いてしまった。正重が来世は正室にと言った言葉だけが、わらわが生きる理由だった。なのに」
「……」
「なのに、大切な家族ができてしまった。幸せを感じてしまう。こんなの、正重への裏切りだ」
「……今から、とてもありきたりなこと言うけど聞いて、はやておばさん」
顔を上げると、春吉は怒った顔をしていた。
「はやておばさんが幸せに生きることを裏切りだっていう男なんて、そりゃその程度の男で、はやておばさんを幸せにはできないよ」
「でも」
「でもじゃない。死ぬなら、どこか藤丸を傷付けない場所で勝手に死ね」
「……ひどいことを言う。だけど、父親としては正解だ。大きくなったな、春吉」
「ひどいこと言ってるのに褒めんなよな」
春吉は、思い出したかのように短くなった煙草を灰皿に押し付け、新しい煙草を取り出した。
「春吉、悪いな」
「……いや、俺は、何も」
「言われていたんだ。本当の吸血鬼に。人間と関わると、その死を看取る度に心が壊れていくから関わるなと……。だけど、改めて言われたときには既に蔵之介がいた。蔵之介を、捨てられるはずなかった。あやめも、朝彦だって、お前だって、……芽衣子も、藤丸も」
それならば、灰になろうと思った。
「……わらわは藤丸にひどいことをしたな」
「かなりな。一回寝てやれば?」
「……。貴様の育て方はどこで間違えたのであろうか」
***
「はやてちゃん、お茶持ってきたよ」
「ありがとう。藤丸、座りなさい」
「……はい?」
藤丸が向かいの椅子に座るので、きちんと向かい合う。
「……わらわは、藤丸の気持ちにこたえることはできない」
「……」
「わらわには、何度死んでも、転生して一緒になろうと約束した人がいる」
「それが、正重さん?」
「……あぁ」
「どんな人なの?」
好いてくれている者に好いている者の話をするのは随分と酷な話なのではないかと思ったが、藤丸に真摯に向き合わなければならない。わらわが真摯に向き合わなければ、藤丸もそうするであろうという予感があった。
正重との出会いも、再会も、一つずつ話していった。
「……転生って言われたときは、冗談かと思ったけど、そっかぁ。会ったんだね」
「……」
「ごめんね、困らせて」
「ううん。あのな、気持ちは嬉しかった。だが、正重のことがなくても、藤丸には幸せになってほしいんだ。そのためには、わらわでは――吸血鬼ではいけない」
藤丸は、俯いたまま頷いた。素直な子だ。その分、春吉のひねくれ具合が悔やまれる。