弱者という名の強者
その日、新聞をもらいにいくと宿の主人の視線が冷たく感じた。一面の下の方に踊る文字に、目を瞠る。
「『放浪の退魔探偵は人殺し……悲痛な被害者家族の叫び』」
「……」
時子はわらわの深いため息を聞きながら新聞を折り畳んだ。
「市子が心配だ。戻ろう」
「いいえ、旅に出る前に看板は取り払っていますし、最も騒がしくなるのはわたくしがいるところでしょうから、ここからはわたくし一人で各地を転々とします」
「わらわは」
「はやてさんは、市子をお願い」
数年の二人旅は、ここで終了となった。
御子柴家へ帰ると、市子は意外にも明るかった。
「お母さん、こうなることを予想してたんです」
「え?」
「今まで当人と家族しか知らなかった吸血鬼が、外国から一気に入ってきて知らないうちに大量殺戮が起こる可能性がある。だから、お母さんの仕事を派手にすることで、食物連鎖で人間の上に立つ吸血鬼を世に知らしめる。今は、お母さん以上に吸血鬼の方が動きにくいはずです」
「……相変わらず、腹黒い」
というか、底が知れない。ただのお嬢様ではなかったのか。
「ここで糾弾に立っているのは人権団体です」
「人権? 吸血鬼の?」
わらわを人と呼ぶのか、と笑った吸血鬼を思い出す。
「簡単にいうと、吸血鬼の人権を保護し、人を襲ったならそれを法律で裁くべきだというのが大筋の主張ですね。お母さんが捕まえて太陽の下に突き飛ばして解決なんて、神様のつもりか、ってこと」
「しかし、腹を空かせない吸血鬼などいないぞ。それは、人を襲わない吸血鬼などいないということだ」
「たぶんこれから急ピッチで吸血鬼の登録と血液をやり取りする体制がつくられる。まぁ、眷属にされてしまった元人間が対象だろうけどね」
「はぁ。いやだいやだ。体制になど組み込まれとうないわ」
春吉が茶を持ってきた。
「なんか、本当に、不老不死なんだな」
「……ん」
「……それが普通の世の中になるってことだろ」
「日の下は歩けないけどな」
「あ、そろそろ出掛けないと」
「いってらっしゃい」
出掛けるというので改めて見てみると、市子はめかしこんでいた。春吉も市子も、もうわらわの見た目と同じくらいだ。
市子が出掛けると、春吉はわらわを避けて上に戻るであろうと思っていたが、大人になった春吉は、目の前に座ったままだった。
「なんだ、市子は逢引か?」
「そうだな。店の常連でいい人がいて。あの人なら、まぁ、許す」
「へぇ。楽しそうだ。春吉は何もないのか?」
「……」
春吉が顔を曇らせる。煙草を吸って、煙を吐く。
「あっ、わらわが邪魔ならば、家を建ててやるからな。さすがに地下のある家を探して出ていくのは無理だし」
「俺、結婚してる。去年」
「えっ」
「家は、……いっちゃんが、探偵社だったとこ本当は引き払ってなくて、そこに住んでいいって言ってくれて、そっちに住んでる」
「そうか。朝彦は奥手だったからなぁ。春吉も見合いの方がいいのかと思っていた」
「カフェ手伝ってくれてるから、明日連れてくる。紹介する。……けど」
「一緒に住む必要などない。大姑だぞ。人であっても嫌であろう」
「……悪い」
「何を謝る必要がある」
嘘でも、魔法使いだとでもいえばよかった。そんな後悔がじわじわと心の奥底から滲んでくる。けれど、嘘を吐いた方が、きっともっと後悔したはずだ。これで良かったのだ。
ただ、嫌ならば紹介しなくてもいいとは、どうしても言えなかった。
翌日、春吉は宣言通りに嫁を連れてきた。
「俺の、」
「この建物の家主のはやてです。数年空けていたのですが、戻ってきました。よろしくお願いします」
「はやてさん。御子柴の家内です。よろしくお願いします」
「えぇ、何か建物の不都合があれば私に」
嫁に開店準備を頼んだ春吉が、わらわをにらみつける。
「家主? 俺はもう家族じゃないってか。確かに、一緒に住むのは無理だけど、でも」
「曾祖母といって誰が信じる? 叔母でも通じない。吸血鬼などと言って、出ていかれたらどうするのだ」
「だからって。俺は確かに吸血鬼っていう存在が怖いって思ったことがある。それは否定しない。おばさんが吸血鬼って聞いて、納得もすぐにはできなかった。だけど、……だけど、育ててくれたのは、おばさんとじいちゃんだろ」
「冷静になれ、春吉。どうして、同い年くらいの見た目で叔母だと紹介できようか。貴様の母にも、詳しくは言っていない。いつか、貴様の息子か娘がこの店を継ぐと言ったその時に、店の地下には化け物が住んでいると言えばいいのだ」
春吉は、新聞を叩きつけるように置いて部屋を出ていった。これでいい。これで。
「ふふ、怒り方、蔵之介にそっくり……」
***
わらわが同じ毎日を繰り返している間に、やがて市子も嫁に行ってしまった。市子は変わらずに情報収集をひっそりと行っている。
時子はと言うと、市子の結婚について電話で語ったっきり帰ってくる様子はなかった。新聞の記事で退魔探偵はお騒がせ探偵と呼び名を変え、舞台俳優か何かのように華やかにもてはやされ、グッズまで出る熱狂っぷりに時子を批判する記事は頻度が減っていった。これも計算の内だったのだろうか。それでも時折批判が出るのだから彼の者共のしつこさもかなりのものだ。その成果なのか、市子がいつか言った通り、吸血鬼の被害者でありながら吸血鬼になってしまった人間のための法整備が瞬く間に行われていった。
春吉の一家にも子どもが生まれた。出産を機にしばらく休んでいた嫁、芽衣子がその子どもを連れてきたのは、うららかな春の日だった。
「あの、はやてさん」
「どうしました」
「藤丸を、預かっていただけませんか」
「え」
「保育園では、まだ小さすぎて。でも、人を雇って給料を出すなんてできそうもないみたいで」
「生活が苦しいの? わらわが渡す生活費では足りない?」
「いいえ、大丈夫です。私が働けば、なんとか」
芽衣子は、ぺこぺこと頭を下げ、店に戻った。
藤丸は母を求めてよく泣いたが、しばらくするとようやくわらわにも懐いてくれるようになった。
赤子の世話は、朝彦以来だ。わらわはとても厳しく躾けていた。
「藤丸。ばーばだ、ばーば」
「あーあ」
「藤丸は天才にございますなー」
***
わらわの部屋には、藤丸が目を悪くしないように大きな電灯をつけている。あまりに大きいのでわらわの食事を持ってきた春吉が時折頭をぶつけていた。
そして、もう一つ、目を引くもの。それがテレビだった。白黒テレビは買わなかったが、カラーテレビが販売され始めた頃にカラーテレビを買った。
「はーちゃん、てれび」
「テレビは、ご飯を食べてからだ」
「いや!」
「嫌ではない。おりこうさんはどこかな?」
「はい!」
「よし、おりこうさんおりこうさん、ご飯を食べましょうね」
藤丸は抱きしめると良い匂いがした。運動のために部屋中を歩かせる。最近は、家から店までの距離を芽衣子と手を繋いで歩いてくるそうだ。
「藤丸ぅー」
「はーちゃん、てれび!」
「あー、はいはい」
テレビをつけると、見知った顔が現れた。上品な顔立ちの、わらわより少し年上に見えるくらいの女。
「時子」
その、写真であった。
『お騒がせ探偵こと近衛時子さんが、今朝、旅行中に崖から足を滑らせて消息を絶ちました』
「……は?」
『近衛さんはまだ見つかっていないということです。なお、ここでも人権擁護団体が近衛さんに謝罪を求め迫っていたとのことで、警察は傍にいた数名に話を聞くということです』
藤丸がチャンネルのつまみを回しても、同じ速報が流れていた。
「はーちゃん、てれびこわれた」
「壊れていないよ」
数分間呆けていたが、やがて時子も不死の体であったことを思い出した。しばらく身を隠すつもりなのであろう。闇にまぎれてでも帰ってくるはずだ。
ただ、心配と言えば芽衣子が時子を見てどういう反応をするかということか。
春吉が転がるように下りてきた。
「はやておばさん、今、速報」
「狼狽えるな」
「狼狽えもするって。わかってる。時子おばさんも、不死ってのは聞いてる。いっちゃんからこういう計画だってのも聞いてた」
「やはりこういう計画なのか」
「店が、報道陣で囲まれてるんだよ」
「ん? なぜだ?」
「わからねぇよ!」
「わかった。知らぬ存ぜぬで通せ。時子は身を隠す場所としてここに戻ってくるはずだ。それまでに散らさないと」
春吉が頷いて階段を上がっていく。
時子の行きつけのカフェだとか紹介する言葉が聞こえた。関係が明るみに出たということではなさそうだ。
「はーちゃん、とーちゃん、おこってる?」
「ううん、怒ってるわけじゃないよ。藤丸ははやてちゃんと遊ぼうな」
「うん」
「うーっ、藤丸は可愛いなぁ」
やがて、店を閉めても囲んでいる報道関係者に辟易した芽衣子がおりてきた。
「お騒がせ探偵が常連だったって本当ですか?」
「あぁ。もし、外に出れぬのなら二階を使うといい。掃除もしているし、使えるはずだ」
布団は、わらわが日に当たれない分、夜明け前から日が落ちるまで干しているので綺麗なものだ。
「二階にお部屋が?」
「あぁ。春吉の祖父が住んでいた」
「へー」
「藤丸、今日はおかあさんに絵を描いたであろう。ほら」
「かーちゃん、かいた!」
藤丸の絵を見ながら、芽衣子と二人で天才なのではと言い合っているとき、春吉が疲れた様子でおりてきた。
「芽衣子、帰ろう」
「もう大丈夫ですか?」
「あぁ。実際、時子おばさんが来てたのはじいちゃんがメインで店やってるときだったし。だけど、誰がそんなこと言ったんだろうなぁ……はぁ、疲れた」
「先程、芽衣子さんには言ったんだが、蔵之介が使っていた部屋があるであろう。掃除はしているぞ」
「どうする、芽衣子。もうここで食っちゃうか」
「お疲れでしょうし、そうしましょうか」
「どうせなら、軽食の新メニュー開発会するか」
「ゆっくり食え。藤丸を風呂に入れてやるから、その間に離乳食を作ってくれればゆっくり食わせられるし」
「本当ですか?」
「あぁ。わらわは夜勤に出るので、それまでなら見てやれるよ。今日は時子が迷惑をかけたし。藤丸、はやてちゃんと風呂に入るぞ」
藤丸を風呂に入れ、離乳食を食わせ、それから着替えて外に出た。
時子が足を滑らせたという崖に向かった。その場所は、規制線があったのですぐにわかった。その場所から滑り落ちてみると、鋭く切り立った岩が生えるように天に伸びていた。勢いよく落ちたら、突き刺さって――、落ち方が悪ければ喉元と心臓どちらも傷付けてしまうかもしれない。そう考えると、ゾッとする場所だ。
「時子」
そっと呼んでみても、当然返事はない。
心もとない月明かりであたりを探しているとき、潮の香りに混ざって血の匂いがした。そちらへ駆けていくと、倒れる人に、人が覆いかぶさるようにて血を吸っていた。まさか。まさか、時子が襲われているのでは。
「吸血鬼っ」
倒せはしないが蹴飛ばすと、その吸血鬼は悲鳴を上げて転がった。悲鳴だというのにどこか間延びしたその声には、聞き覚えがあった。
「痛いですわ!」
「……と、きこ?」
「はやてさん! 探しにきてくださいましたのね」
「貴様、人を襲って……」
「あぁ、人権擁護の方ですわ。この方、吸血鬼が人を襲うのも権利の一つだ、っておっしゃいますの。わたくしが襲っても、それも人権と擁護してくださるでしょうから血をいただいたところですわ。さすがにここまでの大怪我、すぐには治らなくて」
「……そうか」
「吸血鬼として半端だと、余計にたくさんの血が必要ですのよ。この方とはお別れですわ」
時子は、唇に血が滴ったままニィッと笑った。
「……その、人権擁護派がどう動くか見物だな」
「えぇ」
ぎゅっと握りこんだ右手を、左手で押さえる。時子に怒るのは、筋違いだ。元々、守れる家族を守るため、先んじて害を排除するために吸血鬼を退治してきた。吸血鬼にとって人間は餌。わらわだって、相手は悪人だ異国人だと、ごまかして血を吸ってきた。何も変わらないのだ。今時子の餌となっている人間が、時子を不快にさせ続けただけの善良な一個人だとしても。
万人を吸血鬼から守ろうなどとは、最初から考えていなかったではないか。
では、何に裏切られた気になっているのであろう。時子が血を吸う必要があるとは、思っていなかったから?
「帰るぞ、時子」
「えぇ」
家につくと、ようやく報道陣の影は消え、春吉たちは寝ているようであった。大変なことになっているというのに、時子は久しぶりに会えたことではしゃいでいた。
「いいか、春吉の嫁もカフェーで働いている。地下の部屋ですごし、芽衣子にも見つかるなよ」
「えぇ。そのうち、市子に変装セットを買ってきてもらいましょう」
時子は、のんびり伸びをして言う。
「わたくしの騒動で、だいぶ吸血鬼への理解も増えたでしょう」
「まぁ、恐ろしいものという常識にはなったかもな」
「そこで、わたくし達の次の手段は、吸血鬼退治を非合法かつ秘密裏の仕事とすることです」
「あれだけ人権だのなんだの言われて、まだ」
「えぇ。あの方々の声は大きいですわ。でも、人数は少ない。本当の声は、『恐怖の対象と共存なんて冗談じゃない』というもの。けれど、そんなことを言ったら声の大きな連中に大きな声で非人間と批判されるから、表向きこの国は、世界の中で吸血鬼の人権保護先進国となりました。吸血鬼もたくさんいらっしゃいます。そこを、はやてさんが迎え討つ」
「……はぁ」
「そうしますと、法外な依頼の法外な料金でがっぽり稼げるという算段ですわ!」
「わらわにやくざものになれということか。それで、そんなにがっぽり稼いでどうする気だ?」
時子は、ぱちくりと大きく瞬きした。考えていなかったという顔だ。貧乏で苦労したことなどないはずだが、そこまで金に執着するようなことがあったであろうか。
「そうですわねぇ、広大な土地を買って、日本の中に吸血鬼村でも作りましょうか」
「……?」
その金を集めるために吸血鬼を殺して回るというのだから、おかしな話である。