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里の末裔

 男――服部正明と名乗った男に街で買った服を手渡すと、彼はいそいそと風呂場――風呂場と言っても山の中の五右衛門風呂だ――に消えた。風呂は生気を戻す一番の方法だ。遁走術があれば水も火も、薪にも困らない。

「俺は死にたいわけではなかったんだな、寂しかったのだ」

 正明は子供のような笑みを湛え何度もそう言った。
 だが、正明は確かに死にたかったはずだ。もうそれすらわからないくらいに狂うているのだ。わらわはそれを利用しようとしている。
 時子となんら変わらぬ。

「貴様、最後に血を飲んだのはいつだ?」
「わからない。登山客があまり来なくなったから、長く飲んでいない」
「ふむ。潜入してもらうところでは、血を詰めた袋で吸血できるはずだ」
「よかった。誰かが何か血を流すようなことがあれば、俺はたぶん正気でいられない」

 正明は夜に明かりを焚くのを嫌がったが、三日もすれば慣れたようだった。山の中を少しずつ移動しながら戻っていく。その間、正明には新しき世の常識を教えていた。夜も明るいこと、吸血鬼が増えたこと、そして、新興宗教のこと。

「では俺の任務は、ここへの潜入」
「そう。『血の絆』という貴様のような眷属が集められた集団だ。そこで何が行われ、何が起こっているのかを知りたい。できるか?」
「定期連絡は新月の夜。子の刻だ。場所は……、裏門だな」
「承知した」

 次の日、正明は行って戻って来なかった。戻って来ないということは潜入に成功したということだろう。失敗して死ぬような潜入ではない。
 朝方になっても戻って来ないことを確認し、その日の夜にわらわは久しぶりに喫茶きららの地下に潜った。数ヶ月近寄らなかったからか、以前のように襲撃されることはなかった。
 ふかふかの寝具に倒れこむ。数ヶ月ぶりにぐっすりと寝た。昼頃に起きてまず、藤丸に電話をかけて戻って来たと伝えた。藤丸はというと、返事もそこそこにテレビを付けろと言った。

「テレビ? どのチャンネルだ」
『どこでも! 親父が連れて行けって言うから連れてく』

 テレビを付けてみると、どの局も同じ速報が流れていた。白い建物が映し出されている。
 藤丸が春吉を連れてきた。春吉は数ヶ月会わないだけでかなり衰えていた。藤丸が支える春吉の手を掴み、テレビの前に座らせる。

「……息災のようだな」
「あぁ。見ろ、はやておばさん。ここは時子おばさんの例の施設だ」

 知っている。正明を送り出した場所だ。
 春吉の説明によると、反吸血鬼の人間が白昼堂々侵入し、複数名を殺害した後に立てこもっているらしい。立てこもって既に数時間が経過しているそうだ。

「時子は?」
「無事らしい。それどころか余裕の取材対応だ」

 春吉がテレビを指差す。

『えー、今回の事件をまとめますと、複数の襲撃犯が逃げ遅れた複数の信徒を外に突き飛ばし、日光に晒すことで殺害されたということですね』
『はい、わたくしと運よく逃げられた方は、わたくしの部屋に逃げ込みました。きゃあ! ドアを叩く音がしますわ!』
「これ、時子か?」
『クロノスさん、クロノスさん! 大丈夫ですか?』
『え、えぇ』
『えー、現在、建物の北にあります教祖クロノス氏の書斎を映しております。あ、クロノス氏が見えますね。犯人は鬼人種への差別主義者と見られています』
「きじんしゅ?」
「最近じゃ吸血鬼をそう呼ぶらしい」
「ふむ」

 鬼人種。ついに人種として人権を主張するようになったのか。

「時子がやられっぱなしのわけがない。何か裏がありそうだな」
「宗教団体がさらに認められる」
「そうだ。……だが、こちらも人を送っている。奴はただの被害者にはならぬだろうよ」
『あっ、見てください! ドアが破られ――……え?』

 ひどい光景だった。
 扉が破られた瞬間、一人――いや、一匹の吸血鬼が犯人たちを蹂躙していた。正明だ。一人の人間が干からびていく映像が途中で切り替わった。

「飢えた吸血鬼を襲撃すると当然ああなる。だから何かあれば一瞬で灰にせねばならない」

 正明ならば襲われても返り討ちにできると踏んでいたが、吸血しているところを見ると、施設でも血を飲まなかったらしい。暴走という言葉がぴったりな暴走だ。

『し、失礼しました』
『わ、わたくし達は被害者で――……』
『ここまで、クロノス氏に被害状況を伺いました。こちらについては進展がありましたらお知らせします。続いての話題は――……』
「ふん、時子の目論見は外れたな。完全なる被害者ではなくなった」
「時子おばさんが仕組んだ事件ってこと?」
「その可能性はある。あの暴れていた奴は内情を探ろうと潜入させたばかりだった。想像以上の成果だ」
「潜入? その人は大丈夫なのか」
「人ではないし、兵役もない現代人に殺されるような者ではない。――が、今夜迎えに行く」

 その後もテレビは立てこもり事件を取り扱ったが、次第に吸血鬼への同情ではなく恐怖を煽り始めた。時子が使おうとした大団扇は逆風を起こしたようだった。
 春吉が帰った後の来訪者は、怒りをあらわにしていた。固く握りしめた拳には青筋が浮いている。

「やってくれましたわね、はやてさん」
「何のことだ」
「この方ですわ」

 時子はそう言って握りしめていた手を開いた。すると灰が床に散らばった。まさか正明を手にかけたのか。正気に戻って嘆く正明を日の下に連れ出したというところか。
 顔に出さないようにしたし、おそらくそれはこの女には通じる。正明のことは知らぬ存ぜぬで通す他ない。

「何の話だ。何をしにきた。人の家を汚しにきたのか」
「この方、わたくしのオフィスで人を殺しましたのよ。他の信徒も全員。おかげさまで団体のイメージは最悪――どころか、壊滅ですわ」
「見たぞ。テレビでな。吸血鬼も殺されていたが、人間が死んだ途端中継が切れたな。人権が聞いて呆れる」
「わたくしの国は!」

 時子は両手を大きく広げた、武家の姫らしからぬ大きな仕草。昔のことなど覚えてないのか。何度も出た結論だ。もう時子とは相容れぬ。

「吸血鬼のためではなかったのか? 欲が出たようだな」
「元々、日ノ本はわたくしの国になる予定でしたわ」
「本性が出たな」
「本性だなんて!」
「言うたはずだ。貴様の信徒が人を殺せばそいつを殺すし、それを煽れば貴様を殺す。殺されにきたのか?」

 時子はぴくりと眉を動かした。

「わたくしを?」
「他に誰がいる。まさか自分だけは大丈夫だなど思わぬよな?」
「この方はあなたが差し向けた方でしょう。こちらで片付けましたし、それにわたくしは煽ってませんわ」
「都合が悪くわらわが差し向けたと思いたいのだろうが、貴様の団体に興味はない。……さて、遺言は終わりか」

 クナイを持ち出すも、時子はただの脅しと受け取ったようだ。

「刃物ではわたくしは殺せませんわよ」
「貴様に言ったことはなかったが、おそらくこの世でわらわだけが知っている方法がある」
「……わたくしに秘密がありまして……?」
「全てを打ち明けるような仲ではないであろう」
「はやて……さん……? わ、わたくしはここへ来ることを複数の方に伝えてきております! 手を出せば報復がありますわよ」
「報復される前に先程の言葉を聞かせてやろう」
『元々、日ノ本はわたくしの国になる予定でしたわ』
「録音……? はやてさんにそんなこと」
「家族がいる。貴様も手が届く範囲を幸せにすることだけを考えるべきだった」
「それははやてさんの考えでしょう」
「正義だ。わらわの正義と貴様の正義の対立。めでたく戦争だ。先ほどここへ来ることを伝えたと言った。それは、わらわの家族を危険に晒す行為だ。貴様はもう一線を越えた」
「う、嘘ですわ! あなたの家族を危険にはさらしておりません! ですから!」
「ならば都合がよい」

 時子の手などひねり上げるのは容易い。時子はもはや壊れた録音機のように謝罪の言葉しか口にしなかった。
 教祖クロノスの失踪について気付いたのは事情聴取を行おうとした警察くらいのもので、その後クロノスという者についてテレビで触れられることはなかった。

「俺が新婚旅行から帰って最初に見たテレビが時子さんのオフィスで立てこもりだったんで笑っちゃいましたよ。何したんですか?」
「吸血鬼の国を作ると言っていた」
「大それたことを考えましたね」

 恐は相変わらず陰気な夫人を連れまわしているようだった。夫人は熱い茶がぬるくなってようやく茶に手をつけた。新婚旅行の土産の舶来物の茶だ。

「希、ヨーロッパは楽しかったな」
「死ぬかと思いました」

 こちらも相変わらず呆れるほど悲観的ではあるが、恐には少し心を開いたらしい。

「あの、その……街が吸血鬼だらけになることにはならないですよね?」
「なりませんわ。これまで通り」

 時子はツンとそっぽを向いた。

「わたくしは、鬼人種が一方的に迫害されている事実を是正したかったのです」
「いやいや、時子さんは吸血鬼と人間を同等に見てなんていなかったですよ。時子さんが接してきたのは被害者が多い。でも、被害者ばかりじゃない。その比率は人間も吸血鬼も同じだ。それがわかってない」
「それで、街が吸血鬼だらけになることは」
「ありませんってば。それに皆さん、鬼人種ですわ」

 時子が言うと、希は小さい体をますます小さくした。恐がその手を握って「気にするな」と言った。

「ヒステリー婆だ」
「今度は女性のための活動家になろうかしら」
「だめだ。貴様は危険すぎる」
「だから閉じ込めてるんですか?」
「本当は殺すという話であったが、一応相容れぬなりに長年過ごしてきた、いわば身内であるので残念ながらわらわが大切にする対象だ」
「ここが座敷牢ってことですわね。お若い恐さんや希さんはわからないでしょうけど、昔ね、精神的に問題のある人を閉じ込めていたことがあるの。思えば、座敷牢にいた中の半分とはいかない人数が鬼人種だったのでしょうね」

 時子は座敷牢に入ることを特段嫌がらなかった。むしろサクラのようだと少し嬉しそうにしていた。
 希は時子と距離を取りながらぬるい茶を飲んだ。

「欧州のどこを回ったんだ?」
「たくさん回ったんです。イタリア、イギリス、アメリカも」
「あとフランス。魔法学校があるあたりをいくつか回ったんですよ」
「ふふ、この人魔法を信じてるんですよ。面白いでしょう」

 時子が眉をひそめる。わらわも思わず恐を見た。

「言っていないのか?」
「信じないんですよ」

 恐はわりと明け透けに魔法を使うので、夫人の柔らかな拒絶であるように思えた。思い出されるのは音のことだ。今後、子どもが魔法学校に行くということが起こったときに、希はどういう反応をするのだろうか。取り乱す確率はかなり高いように思う。
 恐が帰ると時子ははしたなく寝転がった。

「……魔法を信じない、か」
「恐の傍にいてできるものなのだな」
「あの方、少し怖いですわね……。少し針で突けば破裂しそうな風船みたい」

 そのような者は少なくないだろう、と思ったが言わなかった。

「破裂しそうな風船を針で突く、か。飢えた吸血鬼を襲撃するようなものだな」

 服部正明と共に伊賀は滅びた。
 あとは散舞のはやてだけだ。散舞の里は忠誠を一代限りとして里の存続に執心していたが、他の里が滅びた今、これが散舞の里が目指していたものなのだろうか。残り一人となってどうすればいい。