転生者
「ただいま!」
ココが満点の笑顔で店にやってきたのは、魔法学校の三年生の冬休みに帰省してきたときだった。
優男風の外国人――クライブというらしい――が進一郎の名付けを上書きする呪いをかけたのだと簡単に説明をうけたが、理屈はよくわからなかった。だが、その呪いのせいで進一郎がなんと名付けたのかわからなくなっているらしい。あんなに何度も呼んだ名前が思い出せないとは思わなかった。
「クライブとやら、この子の笑顔を見ることができるなんて思わなかった。本当に感謝する」
「はやておばさん、大袈裟よ。でもクライヴを紹介できてよかった」
ココがくすくすと笑う。どこが大袈裟なものか。
「こっちはエミィ。寮で同じ部屋なの」
「エミィはニックネームで、本名はエマです」
「はやてという。随分年が違うのだな」
エマと握手をしながら尋ねる。外見はわらわより年上に見えそうな、黒髪の短く、良い体型の女だった。
コーヒーを飲みながら話してみると、エマは人間ではないらしい。では吸血鬼なのかと思えば、悪魔らしい。悪魔は日ノ本にはあまりいないが、吸血鬼と一緒に人権の話で出てくることがある。欧米では一般的らしいが、こちらでは吸血鬼との違いがあまり周知されていない。
エマという名前はありふれた名前なのか、どこかで聞いたことがある気がした。
ココは広さを理由に恐たちが住む家ではなく、進一郎と明が住む家に帰っていった。養父と友人もいるので数で考えると確かに進一郎の家の方が適しているが、恐と希を避けているようにも感じた。
「……正直なところ……、ほっとしました」
学校で何か問題が起こったとかで、引率のクライブ氏が帰るのに合わせてココもイタリアに慌ただしく帰ってしまった後、希はボソボソとそう言った。
「何を話していいのかわからないし……、いい友人……なのかしら、あの人、鬼人種って言ってたわ」
「わらわには良き友に見えた」
「それなら……、いいのかしら。ご友人にも紹介したくなかったでしょうね、こんな母親」
「ココがそう言ったのか?」
「いいえ」
「では考えすぎだ」
「……そうでしょうか」
希は下唇を噛んでうつむいた。
「私も……クライヴさんに頼めば呪いが解けるのかしら」
「恐に頼めばよいではないか」
「できないと言われました。高度な技術らしいです。……もしかして、恐さんは私に希望が戻ることを望んでない……?」
「希、その考えはいけない。高度だと言うのなら研鑽を積めるものかもしれぬ。それに、恐に頼らずとも魔力を自覚した今ならば自分でどうにかすることもできるかもしれぬぞ」
「……考えもしませんでした」
希は相変わらずの絶望っぷりを見せているが、それでも魔法について考えを改めたので随分と説明がしやすくなった。
とはいえ、きちんと魔法学校を出ているのは恐だけなのだが。
「エマも成人の姿であったし、希も今から入学しても存外目立たぬのではないか?」
「き、恐さんと離れて暮らすなんてできません……」
希はうんざりしているのかと思っていたが、意外にも耳まで真っ赤に染めて離れたくないと言った。
ちょうど希を迎えに来た恐まで後ろで頬を染めている。
「……あ……、迎え、に」
「き、恐さん!」
「名前を奪う呪いは、今は無理だけどちゃんと練習する……いや、一緒に勉強しよう。お互いの名前を奪おう。それで俺たち、もう一回最初から夫婦を始めよう」
「……はい」
何を見せつけられているのだ。あまりの眩しさに薄目で見ていると、恐が照れ笑いした。
「その呪いがうまくいった暁にはココともうまくやれるようになるといいな」
「はい」
今まで見たなかでもっとも力強く頷いた希は、恐に手を引かれて帰っていった。息をひそめていた時子がぷっと笑いだす。
「いやはや、すごいプロポーズでしたわね。わたくしがトレンディードラマの脚本家でしたら今のセリフを使いましてよ」
「トレンヂーというのはもう流行っていないはずだ」
「トレンディーですわ、はやてさん」
「トレンヂー」
「ティッシュ」
「チッシュ」
「サクラーティ・サヴァレーゼ」
「サクラーチー・サバレーゼ」
「だめですわねぇ」
「ふふ、サクラともこういうやり取りをした。それで、発音できぬならサクラで良いと言われたのだ」
懐かしい。
「はやてちゃん、いる?」
「藤丸! 地下に来るのは久しいな」
「うん。恵理子と旅行でもって話が出てるんだけど、決まらなくてさ。逃げてきた」
「旅行か。いいな」
カフェの経営を友美が継いで数年になるが、完全に友美に任せて旅行などというのは初めてだ。やっと心配しなくていいと感じたのだろう。
「はやてちゃん、元気かなって」
「元気だ」
「嘘だ。昔自殺未遂したときと同じ顔してる」
「……そ、そんなこと」
どんな顔だろう。顔を手で触ってみてもわからない。
藤丸は幼い頃のような泣きそうな顔でわらわを抱きしめた。
「大事な人を探してるんだろ」
「うん」
「友美や佐吉の晴れ姿だってまだ見てない」
「……うん」
「それに、俺ははやてちゃんに看取ってほしいよ」
「それは――……いつになることやら」
「俺の血を飲んだっていいよ。きっと、何かが足りてないんだよ。食べ物か、睡眠か、そういうのがさ」
「……うん」
わらわが諦めようとするときに止めてくれるのは、いつも藤丸だ。
だが地獄のような永遠を終わらせてくれるのは、正重しかいない。
*
藤丸と恵理子の旅行中、わらわは店で友美を眺めながら茶を飲んだ。友美ももう三十代の後半だが、嫁ぐ気はさらさらないらしい。友美は恵理子に似て人懐こい鼻をしていて愛嬌のある、身内のひいき目に見ても可愛らしい顔立ちであるため、人に好かれないことはないと思う。問題は友美が認める人間が現れないことのようだった。
佐吉は自ら同じようなことを言うが、友美の方が理想が高いように感じる。
「友美が淹れる茶も美味しくなった」
「そう? ありがとう」
「本当に俺の手伝いいらないの?」
「何かあったら頼むって」
「昔は俺が継ぐんだろうなって思ってたんだけどな」
カウンター席の隣に佐吉がやってきた。店には女性客が一人いるだけであったので友美も帰れとは言わない。
佐吉は無精ひげを生やしたままであったが、佐吉いわくおしゃれであるらしい。服はだらんとしていたが、それもだらしないわけではなくおしゃれとのことで、言われてみれば確かに清潔感がないわけではなかった。
「姉ちゃん、フレンチトースト食べたい」
「はいはい」
「すみません」
「あ、はーい。ごめん佐吉、自分で作れ」
友美が呼ばれて行ってしまい、佐吉が肩を竦める。
「俺に作れるのは卵かけご飯だけだし。はやてさん作れる?」
「そもそも食事する必要がないから作ったことがないな」
「想像通りの回答。……コーヒーくらいは自分で入れるか」
佐吉が立ち上がり中に入ろうとしたとき、不意に何かに気付いて外へ出た。目で追うと、どうやら入り口の前で立ち尽くしている客がいるようだった。
「どうぞ。あいてますよ」
「あ……」
ココくらいの歳の高校生のようだった。喫茶という店柄、女性客は珍しくなかったが、古い店なので女子高生は珍しい。しかも一人客。入るのを躊躇うのも無理はなかった。
「えーっと、静かに過ごしたいならお好きなテーブル席にどうぞ。コーヒーとか紅茶の種類を知りたいとかなら、カウンターも空いてます」
「……」
女子高生は佐吉が座っていた席、頬杖をつきながら眺めていたわらわの隣に座った。わらわはぎょっとすることになる。彼女は椅子を少し回し、わらわと膝をつき合わせる形で座ったのだ。しかし、驚いたのはそこではない。彼女はボロボロと大粒の涙をこぼしていた。
「……つばき」
「!」
正重の魂の持ち主だった。前回会った時と同じく、正重と同じ目をしていた。
「……諦めそうになっていた……」
目が潤んだが、周りの目が気になり地下の事務所へ案内した。
「なんか急にこっちを通らなきゃって思ったの。それで、……外から見つけた時には息が止まるかと思った」
「今日はたまたま店にいたが、普段は地下で過ごしている」
正重はわらわの手を両手で握った。
「今日会える運命だったんだ」
「運命か……、土佐で再会した時にも言っていたな。これまでの話を聞かせてくれるか?」
「うん」
現在の名前は浦森美紀というらしい。記憶の中の正重と同じように、感情豊かで感動屋だ。
物心ついたときには前世の記憶を思い出し、正重が自らに課した使命を思い出すという。佐吉のようにきっかけがあって思い出すのとは違うようだ。
「今までの人生全部で、つばきが好き」
「……」
「でも、今までの人生の記憶があるから、その分正重の記憶は薄くなってる。美紀で最後だと思う」
「よかった。ならば、次の人生でわらわを探すことはないのだな」
「うん。だから最後にさ」
美紀はわらわの膝に座った。そうしてわらわの首に腕を回して、唇を重ねた。わらわの唇に舌を這わせ、それをねじ込んでくる。
「ん……っ」
美紀はわらわの鋭い犬歯の先で自らの舌に傷をつけた。血の味がジワリと広がってくる。最近吸血をしていなかったので、ゴクリと生唾を飲みつつも美紀を突き放す。
「やめてくれ」
「正重の記憶ごとつばきの胃におさめてよ」
「い、やだ」
「美紀はもうここまででいいんだー」
美紀はわらわの膝と膝の間に、膝をねじこんだ。両肩を掴み、わらわをソファーに押さえつけるような格好で首筋の紋のあたりを舐める。
「理性飛んだら吸血もしちゃうでしょ?」
「……ひっ、……やめ……」
「つばきの弱いトコ、知ってるんだから」
「……や、やだ……。んっ」
やっとのことで美紀を突き飛ばす。息が上がりつつも服を整えてみると、美紀は床に転んだままぴくりとも動かない。
「美紀……? どこか……、打ったのか?」
ツンと血の匂いがした。頭を打ったらしく、倒れている美紀の頭からじわじわと血だまりが広がっていく。
だめだ。救急車を呼ばなければ。
頭ではそう思いつつも、化け物の体は、ゴクリと生唾を飲んでいた。結果的に、美紀が考えた形ではないものの、理性は飛んだことになる。
「あ……、美紀……、正重……? まさ……しげ……」
ふらふらと階段をのぼっていく。
なんだ、この人生は。なんなんだ。四百年待った結果がこれか。どうして。どうしてどうしてどうして。
「あ、はやてちゃん。ただいま。お土産さぁ、どうし――……はやてちゃん! そっちは!!」
店の裏に出る扉を開けて、外へ出た。数百年ぶりの太陽の光は暖かいどころではなく熱く感じた。業火に焼かれるよりも熱い光に包まれ、一歩踏み出すごとに足が灰になり体が崩れていく。
長い旅路であった。わらわの旅は、正重を愛したことで始まり、正重を待ち続け、正重を殺すことで終わるのだ。
「はやてちゃん!」
藤丸がわらわの灰をかき集めるのが見えた。きっと、この家族がわらわの罪。正重はこれを許さなかったのかもしれない。
「ごめんな、藤丸。……家族になってくれて、ありがとう」
「……。大好きだよ」
それが灰になる直前に聞いた最後の言葉であった。